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[コメント] マトリックス(1999/米)

(2017年1月29日投稿)この映画が1999年公開であることを差し引いても、日本人としてはつい「今ドキそんなところにいるなんて、ハリウッドさん遅れてるねぇ」と言いたくなってしまう。それでも全否定できない輝きがこの作品にはあるわけで――
dov

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 おそらくこの映画の根底には東洋への憧れがあるのだけれど、「本場」の日本人からすればもちろんツッコミ所満載だ。

 例えばこの作品に出てくるカンフーの「あまりの」素人臭さ。興味ある方は試しに下記1、2、3の動画を見比べてみてほしい(動画の最後までは観なくていいです)。

 1. youtu.be/J-jlEHj4YDM?t=44s

 2. youtu.be/B6PC5WZ372I?t=21s

 3. youtu.be/qs-ljAKij8g?t=52s

 たぶん1と2&3との落差に失笑されたのではないだろうか?

 運動音痴の私が偉そうに言うのは恥ずかしいのだが(ブルース・リーのファンでもない。というか彼の映画を一作も通して観たことがない)、そんな私にすら2、3は「素人の動き」だと一目で分かる。もちろん1だって現実の格闘にはあり得ない動きだろうけれども、これは偽物としては本物らしい(ブルース・リーが武道家ということもあるが、そもそも中国に武道や演武があることが根本と思える。だから同じく武道や演武があり、殺陣なども見慣れている私達日本人には、米国人には分からなかったらしい『マトリックス』のカンフーのダサさが分かる)。1には少なくとも鍛錬の裏打ちがあって、重心や立ち回り、筋肉の緊張・弛緩に一応の「理」がある。少なくともそう錯覚させてくれる。それにひきかえ2の動きの大半は無意味・コケオドシでしかないし、3は「それ、本気でカッコイイと思って撮ってるの?」という笑いすら喚起する(ダッサダサなエージェントの走りやネオの蹴りときたら!)。――そしてこの点こそ非常に重要だと思うのだが、たぶん「監督は本気(マジ)でこれを撮っている」。

 ここに私は日本人として思わず微笑してしまう。漫画の主人公を真似て「ゴムゴムの銃(ピストル)!」とか叫ぶ子供を眺めている気分になってしまうのだ。

 そしてこれはカンフーアクションだけに限った話でなく、この映画のあらゆる要素に感じられたことでもある。

 例えばこの作品のエージェントは「人類は病原菌なのだ。君たちは地球にはびこる厄介なガンで、我々はその治療薬だ」と言った。もしかするとハリウッドの住人にとっては衝撃的な台詞だったのかもしれないが、そんなことは日本のサブカルでは当時の10年以上前から語られている(例えば1988年公開の『逆襲のシャア』)。漫画なら1988〜1995年連載の《寄生獣》が挙げられるし、私より詳しい方ならもっと多数の作品、古い作品だって挙げられるはずだ。つまり日本人にとっては「今更?」としか感じられない台詞なのだ。

 あるいは『マトリックス』のテーマとして繰り返し語られる「自由意思」には、おそらく仏教とりわけ(あの故スティーブジョブズも大好きだった)禅宗の影響がある(西田幾多郎については詳しくありません)。しかし我々日本人は学生の頃、禅が巧妙に日本の統治機構に利用されてきた歴史( philosophy.hix05.com/Japanese/daisetsu/daisetsu02.html )をおべんきょーさせられているし、大半の日本人は禅思想を手放しで真理とはみなさないだろう。手放しに信仰しちゃってる監督の無邪気さに対して、日本人の私はやっぱり微笑せざるを得ない。

 SF要素については私あんまり詳しくないので笑うつもりが笑われることになりそうだけど、一応書いてみます。『マトリックス』が描いた「今自分が《現実》だと思っている世界は実は虚構ではないか」という不安自体は誰もがきっと感じたことがあるはずで、そこにアプローチしている点は嬉しかった。――ただこの映画はアプローチの仕方がアホすぎる。あまりにもツッコミどころだらけだったので、以下に箇条書きにしてみる。

・「実は我々はコンピュータに騙されているディストピアに住んでいたんだ−(どばーん)」ってそれジョージ・オーウェルの小説《1984》(1949年出版)じゃないですか。50年前のネタですよ!!!

・この映画、「虚構」より「現実」の方がよっぽど作りモノめいてて嘘くさいです。てか「現実」を「アリスのワンダーランド」や「オズ王国」に喩えてる辺り、作者も登場人物も「現実」が虚構だと暗に認めちゃってないですか?

・そもそも、「虚構」と「現実」をスパッと単純な二元論で切り分けちゃうのがナァ。本当の恐怖って、「虚構」の中に「現実」があって、「現実」の中に「虚構」があって……って両者の境目が無くなることじゃないですか?

・「ビジネスマン、教師、弁護士、大工。それはまさに我々が救おうとしている人々だ。だがまだ今はマトリックスの一部で、つまり敵だ」なーんて主人公達がうそぶいて、平然と「救おうとしている人々=真実に目覚めていない人々」を殺しちゃってます。――あれ、それってオウム真理(ry

 このように思わず敬体で書いてしまったくらいヤバかったのだが、たぶん「監督は本気(マジ)でこれを撮っている」。なぜ2度もそう言えるのかというと、まあ映画から受け取った言語化しにくい印象とか映画外から得た情報(伝え聞くウォシャウスキー姉妹の人物像等)がメインの理由なんだけど、もう一つ間接証拠を挙げることもできる。

 この映画、極めて厳密にハリウッドの教科書通り造られているのだ。

 ここでいう「教科書」とは《神話の法則》やら《シド・フィールドの脚本術》やらのことだが、ほんと気持ち悪いくらいアレらに忠実に造られている。私はこういう純粋さに触れる度に「あ、この監督本気(マジ)だな」と肌感覚で実感させられたのだが……うん、こんな作品を大作として成り立たせちゃうハリウッドは、ホント底知れない魔界だねぇ……。

 結局のところこの作品は、カンフーは素人丸出しだし、SFとしてはイマイチ物足りないし(自分、この時代のSF映像作品だと《Serial experiments lain》が好きです)、東洋思想の悪い部分だけ採り入れちゃってるし(禅的思想を無批判に演繹してオウム真理教やっちゃってる)、物語構造はハリウッド伝統のテンプレそのまんま。だから先が読めちゃいます(逆に話が意味不明って思った人もいっぱいいたらしいけど)。公平に見てVFXの凄さは認めるとしても、とてもメジャーになっていい作品とは――ましてや「芸術作品」とは認められない。駄作やB級映画との誹りも間違いではなくむしろ限りなく正しいと思うし、何なら「金掛けただけのガラクタ」と斬って捨ててしまっていいのかもしれない。

 ただそれでも……私にはどうしてもこの作品を斬り捨てることができない。――だってこの映画は紛れもないサブカルだったから。

 ここまで散々「日光の猿真似」だの「くさや喰え」だのボロクソに書いてきたけれどさ、それでもこの作品は、日本のサブカルが持つ「臭い」は醸し出せてたんじゃないかなって思うんだ。

 例えば反り返りまくって銃弾を避けたり、敵に特攻してどかーんさせたり――そういうサブカル臭は、理屈抜きに我々が真似したくなる魅力があると思う( youtu.be/4ZbbDSlOJkQ )。「デュエルスタンバイ!」とか「かめはめ波」あるいは「コマネチ!」にしたって、凄くバカバカしいけど、ちょっと真似したくなる魅力があるじゃん? 何ならトランプに何かをチャージして投げてみたり、バット持ってバットマンを名乗ったっていいさ(《私はやってない♪》は真似しない方がいいだろうけど)。そういう「バカバカしい」魅力だったらこの映画には沢山詰まってたはず。

 そして私はそういうサブカル臭を全否定したくない。だって今の日本ってサブカル文化だと思うから。芥川賞作品よりも、野間文芸賞作品よりも、ポケモンの方がずっと社会に根ざしてるし、影響力もあると思っているから。

 首相が赤帽子を被ったヒゲオヤジに扮する国の住人として、私はそう思うのだ。

※文中youtubeや個人サイトへリンクを張りましたが、もしも問題でしたらメール等でご指摘くださると助かります。

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