[コメント] 叫(2006/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
「それ、前もやったじゃん」というのが第一感想。
これを私は「おなじみ芸」と揶揄したのだが、知人の映画学の先生は「自己模倣」と呼び、安直な反復よりはむしろ自らを冷たく突き放す「自己反省性」と指摘する。さらに、それは黒沢清が自らを壊そうとしてる現れではないかとも書いている。
こうした他人の映画評を持ち出してきた理由は、私が前作『LOFT』辺りから「黒沢清、壊れちまったんじゃねーの?」と薄々思っていたことと、奇妙にもキーワードが一致したことに興味を覚えたからだ。
黒沢清の特徴というか本質を言葉で表現するのは(私には)難しいのだが、敢えて言うなら「この世界は不安定である」ことを描写し続ける作家であろう。 足元は液状化し、頭上の蛍光灯は揺れ続ける。不安定この上ないこの世界。 その世界の「ほころび」が次第に拡大し、アッチの世界がコッチの世界を浸食してくる。 『ストーカー』にも似た毎度おなじみの物語は、彼がいかにタルコフスキーに傾倒しているかがうかがえる(最近は風貌も似てきた)。
だが私は知っている。まだ黒沢清が監督デビューしてほどない頃、トビー・フーパーについて熱く語っていたことを。 「トビー・フーパーとは、思考することも見ることも禁じて、ただ“感じとる”としか言いようのないある精神の高鳴りを僕たちに要求して止まぬ者の名前なのだ」と。
私は、自分がこれとほぼ同様のことをタルコフスキーに対して言っていることを思い出した。タルコフスキーは“考える”のではなく“感じる”映画なのだと。
黒沢清は、ただ“感じとる”映画に憧れているフシがある。 前述した映画学の先生も、黒沢清が自らを壊そうとしている理由を「映画の奇跡を求めているからだ」と指摘している。「問答無用」の「映画の圧倒的瞬間」によって実現される奇跡。黒沢清はそれを模索しているのではないかと。
かの黒澤明ですら、晩年にこんなことを言っている。 「この歳になっても、どうやったら“映画的瞬間”がとらえられるのかいまだに分からない」
黒沢清は“死”をワンカットで描く。飛び降り、溺死、撲殺。これまでの作品を振り返っても、おそらくほとんどそうだったはずだ。 濡れ場を丹念に描く監督は大勢いるが、黒沢清は性的場面は描かない。 本作でも、奥貫薫と野村宏伸は一戦交えた後であるのは明らかなのにそれは服を正す仕草だけで、一方頭をボカスカ殴り倒すところはワンカットで執拗に撮影する。 まるで、『サイコ』のシャワーシーンの対極であろうとするかのようだ。
ヒッチ先生がそのテクニックを駆使して「映画の圧倒的瞬間」を“演出”したのに対し、黒沢清はいかにテクニックを用いずに「映画的瞬間」を“切り取ろう”かとチャレンジしているように思える。 その様は、そこに何ら確証もなく、闇雲に模索しているようにも思えてならない。 ハッキリ言えばこうだ。
出鱈目。
いやあ、この映画、出鱈目この上ない。 タルコフスキー的なものとトビー・フーパー的なものを同時に得ようとする出鱈目さがこの映画には満ちている。 ひょひょ〜んと飛んでっちゃう様なんざ、あんまり出鱈目すぎて爆笑した。その意味するところが全く分からん。なんじゃそりゃー!
いやあ、まったくもって愉快な映画だ。私は好きだよ。
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