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[コメント] ノルウェイの森(2010/日)

壁の周りを歩く物語。なんにせよハルキの映画化は難しい。というか、ほぼ不可能。長いレビューになっちまった。やれやれ。
ペペロンチーノ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







小説と映画は表現手法が異なるので、その比較は愚かしいことだと私は思っている。 ましてや、それが文学であれば尚更。 文字でしか表現できないから文学なのであって、『トニー滝谷』の様によほど映画が文学に寄り添うか、ブニュエルの『嵐が丘』の様に換骨奪胎してでもそのエッセンスだけを抽出しない限り、文学の映像化の成功は難しい。 映像化の多い人気作家の作品なんてものは、単にストーリーが面白いだけであって、文学ではない。

そもそも、小説「ノルウェイの森」は世界で1100万部も売れているそうだが、表面上のストーリーと書かれている内容が全然違うことに気付いている読者は、世界中でも1万人くらいしかいないだろう(<根拠はない)。そして、正しい解釈ができている人は一人もいない。いやもう、そこに正解なんかない。 だってさあ、村上春樹の処女作「風の歌を聴け」なんか、発表当初の粗筋(書評)と春樹研究が進んだ今日の粗筋とじゃ、全然ストーリーが違うんだぜ。言ってる意味分かる?同じ小説なのに、読み解き方が違うとストーリーが違っちゃうんだ。正確には、ハルキの小説は粗筋すら説明するのが難しい。

中でも「ノルウェイの森」は大変危険な小説で、通常ハルキ本は、月が2つの世界になったり、羊男が出てきたり、東京の地下にヤミクロがいたり、「これはSFなのか?」と思うような“アッチの世界”が出てきて、どんな読者でも「アッチの世界の話なんだな」と分かるように作られている。 もう少し言うと、凄い筆力で“コッチの世界”から“アッチの世界”へ読者を連れて行ってしまうので、ハルキストの多くは現実とフィクションの区別がつかなくなるんだ。だからねえ、ハルキ読んでると仕事とかするのが嫌になってくるんだよ。だいたいヤミクロって何だよ!

いや、そんな話じゃなかったな。 「ノルウェイの森」は、一見“コッチの世界”だけの話に見えるんです。 ハルキ自身「純愛小説」と言っていることもあって、多くの人が“コッチの世界”の恋愛話と思って読んでしまうんですよ。それで、我々の知りうる「純愛小説」の範疇で、面白いの面白くないのを語りたくなるんですな。 大間違い。当然“アッチの世界”の話なんですよ。表面上のストーリーと、そこに書かれていることは別物なんです。「1+1=2」である現実の世界じゃないんです。

例えばこの映画で、長いワンショットで主人公二人が草原の中を歩きながら話すシーンがあります。映画では描かれていませんが、あそこには井戸があるんです。というか、井戸がなきゃいけないんです。ハルキの小説には頻繁に井戸が出てきます。しかし、その意味するところは未だ分かりません。ただ、そこにポッカリと口を開けた“闇”が存在するのです。“闇”が存在しなければいけないんです。

そういうわけで、一見“コッチの世界”だけの話に見える実に危険な「ノルウェイの森」の映画版は、例え連ドラで一年かけて原作に忠実に映像化しても、その意味するところは分からない話なのです、本当は。 そんな話を、トラン・アン・ユンは「僕はどこにいるんだろう?」の物語と読み解いたのでしょう。 それはそれで、決して間違いではない解釈だと思います。

文学者・石原千秋は、「ノルウェイの森」を夏目漱石「こころ」の本歌取りだと読み解いている。 どこがどう「こころ」なのかを語りだすと長くなるのでやめますが、私の印象では、「こころ」も「ノルウェイの森」も主人公達がよく歩くんですよ。 トラン・アン・ユンも「歩く」ことは読み解いたようで、この映画の主人公もよく歩くんです。 印象的なのは、大学紛争渦巻くの校内でのシーン。流れに逆らうわけでもなく乗じるわけでもなく、ただ、なんとなく時代の波の中で歩いている。 直子が死んで旅に出た時は、ピタッと歩くのを止めてしまう。

そして、ハルキの話には大きな“壁”が出てくるんですね。 本当に物理的な壁の場合もあれば、壁の形をしていない場合や目に見えない場合もある。 この映画における“壁”は、死んだ親友キズキなんです。「こころ」のKと同じですね。 越えたくても越えられない“壁”。 主人公達はその壁の周りをウロウロ歩く。 そして、「僕はどこにいるんだろう?」の物語に帰着する。

そう考えれば、トラン・アン・ユンはとても綺麗にまとめていると思う。 原作通りのストーリーを観客に伝えることが映画作家の仕事ではない。 原作から感じたイメージを自分なりに表現してこそ作家だと思うんです。 うん、わるくない。

余談

ウチのヨメは小説「ノルウェイの森」を「女らしい女になりたい女達が女らしい女になれない物語」と読み解いていて、その解釈が映画と大きく異なっていて、むしろゴダール『女は女である』の方が小説「ノルウェイの森」に近いと言っている(<かなり暴論)。 私はいつもハルキ作品からキューブリックやタルコフスキーを想起するので、すごくイメージに合った映像表現だったと思っている。

(10.12.19 ユナイテッドシネマとしまえんにて鑑賞)

(評価:★4)

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