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[コメント] Ricky リッキー(2009/仏=伊)

すわ『ローズマリーの赤ちゃん』か?『E.T.』か?と思ったら、ハリウッド的類型のどこにもない、とんでもない哲学映画。
ペペロンチーノ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







生活の困窮を訴え涙を流す主人公がアヴァンタイトルで描写され、本編は「その数ヶ月前」として始まります。 となると我々観客は、仲睦まじい母娘の姿を見せられても、「この先、どんな不幸が待ち受けているんだろう?」という目で見てしまいます。 なんだか画面に緊張感が張り詰めていて、スクーターでスクールバスを抜くだけで、「事故でも起きるんじゃないか?」とドキドキしてしまいます。 妊娠後も、不穏な音楽や鳥の鳴き声が、すわ『ローズマリーの赤ちゃん』か?といった不安感を掻き立てるのです。

ところが、話はとんでもない展開をみせ、要するに、というか、文字通り、「鶴の恩返し」になるのです。文字通り?

ところがところが、単純な「鶴の恩返し」じゃない。 マスコミ相手に大儲けするわけでもなければ、ロトで大当たりするわけでもない。もちろん『E.T.』にもならない。 ドラマチックな大きな不幸や大きな幸せは出てこないんです。 奇天烈な設定なのに、描かれるのは庶民的な小さな不幸と小さな幸福の繰り返し。

「人生8勝7敗くらいが丁度いい」的な哲学がそこにあるのです。 普通、例えばハリウッドなら「子はかすがい」的なテーマであろうと予想していたら、「人間万事塞翁が馬」だったという、とんでもない哲学映画だと思うのです。 いやもう事態の原因すらどうでもいいしね。毛深いの関係ないって。

私は、フランソワ・オゾンは“喪失”の物語を好んで描く人だと思っています。 結果として喪失する場合もあれば、喪失した後の話の場合もあります。 言い換えれば、「喪失を知る物語」か「喪失したものを埋める物語」なのでしょう。 この“喪失”というキーワードが、私にはとても現代的なテーマに思え、オゾンは「俊英」「鬼才」と言われますが、私は「現代的な作家」という表現の方がシックリくるのです。 彼が時折見せる、意図的な古風さや古い映画へのオマージュも、現代的な作家の成せる技のような気がしてなりません。

(10.12.05 渋谷Bunkamuraル・シネマにて鑑賞)

(評価:★4)

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