[コメント] 八日目の蝉(2011/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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正直、NHKのドラマも観ていて、原作は読んでいないが角田光代がどういう作風の作家かは何冊か読んだ経験で知っている。 だから、「知ってる話の映画化はこんなもんなんだよねぇ」という感想を抱く前提で観に行っていた。 いや、そんな前提ならわざわざ観に行く必要はなかったんだが、昨年見逃した『孤高のメス』の評判が良かった成島出監督の映画を観てみたかったから。それに俺の瞬間大好きだ度ナンバー1永作博美だしね。小池栄子先生も出てるし。
ところが、NHKのドラマも相当良かったんだが、この映画はものすごく良かった。 ドラマ版よりもグサグサ刺さる台詞や映画的な情景が満載。
映画は、鬼の形相の森口瑤子と永作さんの独白で始まり、アバンタイトルで事件の全貌を明かしてしまいます。 つまり、事件の行方は主眼ではないのです。 4つか5つの時間軸が交差し、一見複雑に見えますが、気持ちの流れに沿って構成されているのです。 「魂で話す」という、余貴美子演じるエンゼルさんだったかな?の台詞にありますが、この映画の行き着く先は、おそらく「魂の解放」なのでしょう。
さらに彼女は「あなたは女ですか?なぜそう思うのですか?」と問います。 この映画には「女であること」が根底にあります。
事件そのものを見れば、責めを負うべきなのは男性陣であるにも関わらず、この映画の女性陣はむしろ自らを責めます。 いや、この映画に限った話ではありません。浮気が発覚した際、男は浮気した彼女(妻)を責めますが、女性は彼氏(夫)の浮気相手の女性を責めるのが通常です。 この映画の画面上を占める男性の割合は小さいものですが、その存在は大変大きい。 例えば、小池栄子先生が男性恐怖症であることを告白しますが、目に見えない形でまで男性が影響を及ぼすのです。 そう考えるとこの物語は、良きにつけ悪しきにつけ、“男性”の存在と不可分な形で“女性”が描かれているのです。
これは、単に“母性”の物語でも“母娘”の物語でもありません。そして“女”の物語でもないのです。 それらを全部包括した“性(さが)”としての“女性”の物語。そして、その魂の解放の物語。 私はそう思います。 うーん、いかにも角田光代。
忌野清志郎の訃報を聞いて「迷子になった子どものように途方に暮れた」と書いた角田光代。 「八日目まで生きた蝉」は「迷子の現代人」の象徴なのかもしれない。
(11.05.05 ユナイテッドシネマとしまえんにて鑑賞)
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