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[コメント] ヒミズ(2011/日)

地表に放り出されたモグラが薄眼で未来を探す物語。テーマ的には黒沢清向きのような気もするが、彼ならもっとずっと低温だったろう。園子温の体温は熱い。
ペペロンチーノ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







東日本大震災を受けて脚本を大幅に書き直したそうだ。 それによってこの映画のテーマ自体も変わったかもしれない。 書き直しによって付加価値が得られた部分もあるだろうし、逆にボケてしまった部分もあるようにも見える、というのが率直な感想。

いろんな切り取り方が可能な物語だと思う。

例えば、「がんばれ!」という言葉一つとっても、最初の頃に中学校の教師が発するそれとラストで少女が発するそれは、温度も重さも全然違う。 茶沢が壁中に貼る住田の“言葉”もまた、「剥き身で再構築された(byけにろん師匠)」後に発せられる「がんばれ!」の前には、まるで青臭く軽い言葉でしかない。

あるいは、『タクシードライバー』トラヴィスになれなかった男の物語とも読みとれる。 世のために彼が殺そうとする人物は、ほぼ常に自分に似た人間なのだ。ある意味“自分殺し願望”の物語にも見える(そのイメージは冒頭からずっと描かれていたが)。

また、意図的に“母性を欠如”させた物語にも見える。 少年少女それぞれの母親はもちろんのこと、吹越満とイチャついてる神楽坂恵もニヤニヤと事態を傍観しかしない。その顔を意図的に写しているのだから(嫁さんだからという理由ではないだろう)、傍観者であることを意図的に描いているに違いない。少女・茶沢も物語上の“母性”は担っていない。むしろ彼女は住田少年と同じ立ち位置にいる。

おそらく“母性の欠如”が意味するものは、愛されることを知らない子供たちを描写することはもちろん、全てを包み込む愛が世界に欠如していることでもあろう。もしかすると母なる大地の崩壊にもつながっているかもしれない。 父親も機能していないことから、親から子への世代伝承=“世界の継続”すら否定しているのかもしれない。崩壊した大地の映像と合わせ、自らの力で進むしかない“戻るべき場所のない若者”を象徴しているように思える。 そんな若者に進むべき僅かな光を見せるのは(そして未来を見出すのは)、母でも父でもなく、でんでん渡辺哲といったオッサンなのだ。オッサン最高!

そして、これら全部ひっくるめて、私はこう読み解く。 すっかり様変わりした世界に放り出された若者、例えるなら地表に放り出されたモグラが、親の愛も知らず、もしかすると愛というものが何なのかも知らず、地べたを這いずり回り、絶望にのたうち回りながら、わずかに見える未来に向かって進もうとする物語。 これは震災を受けて脚本を書き直した功罪の“功”だろうし、とてもいい物語だと思う。 原作は「世界を変えられない」ことに絶望する物語らしいが、この映画は変わってしまった世界に対する絶望から這い上がろうとする物語だ。 「人生がんばれsong」が大嫌いな俺でさえ、あの時は「がんばれ!」と思ったし「がんばろう!」と思ったよ。 だから、でんでんとの絡みで渡辺哲が「未来」という言葉を持ち出した時は泣いたし、ラストシーンにも涙したよ。

ただ、私の趣味から言えば、描くべき世界が少し広すぎた気がする。 もっと親子関係に的を絞って、個人的な問題、人間の根源に関わるような問題の方が好みだ。

そして、同じ若者主人公として『愛のむきだし』は、園子温自身の体験ベースのためか、主人公の少年に監督の気持ちが乗っていたように思うが、この映画では「若者に未来を託す」“オッサン”、つまり主人公以外に気持ちが乗っているような気がする。オッサン最高!と言ったものの、そこは少し違和感がある。 まあ、俺がオッサンでオッサンに肩入れしてるだけだが。

思い付いたことがあったので追記

もしかすると、子を持つ親が観たら全く理解不能なんじゃないかとも思うのだが、この映画における“親”は、原発事故と同じで、理由もなく子供の未来を奪う装置として配置されている。 それでも未来を模索する子供たちは、新時代のアダムとイヴなのかもしれない。

(12.01.22 ユナイテッドシネマとしまえんにて鑑賞)

(評価:★4)

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