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[コメント] 熱いトタン屋根の猫(1958/米)

当時は先進的過ぎて時代に曲げられた作品かもしれない。「熱いトタン屋根の猫」が真に意味するところは何だったのだろう?
ペペロンチーノ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ポール・ニューマンの特集上映にて、2022年にもなって初鑑賞。そもそも(恥ずかしながら)テネシー・ウィリアムズ戯曲ものも初鑑賞。予備知識ゼロで鑑賞したら話のレベルが高くてビックリした。映画としてはこの時代の撮り方だし、いかにも舞台作品の映画化感は否めませんが。

観ていて「ん?」と思ったんです。

私は「長男は父親の本当の子ではないんだ」と思って観ていました。「お父さんがプロポーズしてくれた時、既にお腹の中にいた」という母親の台詞やその後の態度から推測されます。そう考えれば、父親が次男のポール・ニューマンを可愛がる理由も、家督を継がせたがる理由も、「愛していない女でも抱け!」とまで言って跡継ぎを切に望む理由も全て納得がいきます。しかし、映画はその種明かしをしません。種明かしをしないことが、一つ目の「ん?」。

私は「このポール・ニューマンはゲイだよね」と思って観ていました。「親友」と言っていますが、ゲイの恋人です。「父さんは愛というものがわかってない!」的なことも言いますしね。ポール・ニューマンがリズを許せないのは、「浮気した妻」だからではなく、「自分の彼氏を取った」からです。まるでグザヴィエ・ドラン。この時代の映画としたら非常に先進的です。ところが映画は、リズと子作りしようと持ちかけるところで終わります。「愛していない女でも抱け!」という父の言葉を実践したとも考えられますが、枕を二つ並べる小粋なラストショットで「夫婦仲が収まってよかったね。めでたしめでたし」感があるのです。そこが二つ目の「ん?」ポイントでした。

鑑賞後調べてみると、テネシー・ウィリアムズ自身が実際にゲイだったそうです。私の調べで行き当たった説によれば、1955年のブロードウェイ上演時に演出家が原作(特にラスト)を改変し、映画版もそのままだとか。

その演出家はエリア・カザン

シネスケでは改めて書くまでもありませんが、名監督であると同時に、「赤狩り」の嵐の中で仲間を売った「裏切り者」として悪名も高い。まあ、トルコ生まれのギリシア系という出自で(その当時の)アメリカを生き抜いていくには、やむを得ない選択だった気もしますが……。エリア・カザンが非米活動委員会に責められたのが1952年。その彼がこの話を舞台演出して原作を改変した(と思われる)のが55年。その改変後の戯曲を映画化したのが58年。これは、そういうバックボーンを背負った作品なのです。

さて、この「赤狩り」というか「魔女狩り」は、「非米活動委員会」の名の通り「非アメリカ」的な物事を槍玉に挙げたのではなかろうかと推測されます。推測するに、エリア・カザンが懸念して改変した「非アメリカ」的要素が、「同性愛」と「実子ではない」という点だったのではないでしょうか。これは、当時としては先進的過ぎて「時代に曲げられた」作品なのかもしれません。

では、テネシー・ウィリアムズはこの戯曲で何を描きたかったのか。いわゆる「家族愛」的なこととは真逆の、「既存の価値観」に対する反抗だったように思います。そう考えると『熱いトタン屋根の猫』というタイトルも、劇中で言っているのとは違う意味を持っているように思います。「ジタバタする」という英語の慣用句であれば、リズよりもポール・ニューマン、いや、登場人物全員が「ジタバタする」映画なのです。いや、赤狩り吹き荒れる当時のアメリカそのものが「ジタバタしている」という皮肉だったのかもしれません。

父親の父親が南北戦争の従事者だったのに貧乏で(それが南北どちら側だったかは、制帽を見れば分かる人は分かるのかな?)、その息子が労働者として黒人を雇って資産家になるという、アメリカの縮図も垣間見えるんですよね。話のレベルが高い。

(2022.10.29 シネ・リーブル池袋にて鑑賞)

(評価:★4)

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