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[コメント] 散歩する侵略者(2017/日)

黒沢清は何の概念を無くしたんだろう?
ペペロンチーノ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







設定は面白いし、いろんなものも提示してるんだけど、話の底が浅い。あ、『太陽』でも同じ感想書いてる。

概念をめぐるエピソードで出てくるキーワードが「家族」「所有」「自分と他人」「仕事」「ウザイなど他者の排除」そして「愛」。なんかもう“如何にも”ってチョイスじゃない?メッセージ臭いというか青臭い。青汁かっ!。すべては愛なんだ!みたいなこととか、なんかもう。V6かっ!。

真面目に批判しますけど、提示するだけだから底が浅く見えるんですよ。

例えば「仕事」「所有」「他者排除」、これらの概念を奪われた人間はある意味“解放”されてるじゃないですか。 「侵略されることによって人間が解放される」「本当はどっちが正しいんだろう?」って物語だったら、すごく深い話になったと思う。 あるいは逆に、「家族」「愛」という概念を人間から奪えなかったから侵略できなかった、という物語だったら、人間賛歌として面白い話になっていたと思う。 いやもっとシンプルに、「家族」の概念を取り戻す話だっていい。前田敦子の物語になっちゃうけど。 いずれにせよこの設定だったら、もっともっと掘り下げる要素が沢山あったと思う。

ハッキリキッパリ言っちゃえば、夫婦再生の物語なんだろうけど、「抜群に面白い設定」と「結論」ありきで、その間がズサンな典型的な“設定負け映画”だと思う。

映像というか画面上はいつもの黒沢清節なんです。 あんな崖とかこんな廃工場とか毎度おなじみスクリーンプロセスの車窓とかゾンビ歩きとか。 そういや今回気付いたけど、黒沢清って「キャー!」とか「ワー!」とか、あんまり悲鳴をあげさせないよね。そういうところとか、黒沢清の“手癖”は満載なんだけど、本質的な何かが違う気がする。まるで何かの“概念”を抜き取られたかのよう。

「この世界は不安定である」ことを描き続ける作家=黒沢清向きの題材だったと思うんです。 ただ、『トウキョウソナタ』から5年のブランク後に「完全なる娯楽作品を作るぜ」宣言をして撮った『リアル〜完全なる首長竜の日〜』以降(その間、テレビドラマ「贖罪」を撮ってますが)、少し作風というか、描こうとしているものが変わってきた気がしています(あ、これも『クリーピー 偽りの隣人』でも同じこと書いてる)。

今回の題材は『CURE/キュア』とか『回路』みたいな初期の(そして黒沢清が最も得意とする)アッチの世界がコッチの世界を静かに侵略してくる、タルコフスキー『ストーカー』的な世界。そういう原点回帰も期待したんですよねえ。 そしたら原点回帰しすぎて『勝手にしやがれ!!』の頃の笑えないコメディにまで戻っちゃった。 え?これ、コメディじゃないの?

もしかすると黒沢清自身が「娯楽作品」というアッチの世界に侵略されたのかもしれないな。

追伸

本当は、阪本順治『団地』とか吉田大八『美しい星』とか、なぜ今、宇宙人物が続くのか?という考察をしようと思ったんけど、一番期待した本作が一番陳腐な物語だったんで拍子抜けした。 あー、『ブルークリスマス』が観たい!

追伸2

あ、キーワードは「偽りの隣人」だ。何だか分かった気がする。

(17.09.09 シネ・リーブル池袋にて鑑賞)

(評価:★2)

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