[コメント] 冬時間のパリ(2018/仏)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
原題は「Double Vies」。英題だと「Double Lives」。2つの人生とか二重生活とか、Vie(Life)を人生と訳すか生活と訳すかですが、それも含めてダブルミーニング以上に多様な解釈が可能な意味深なタイトルです。なに?この邦題?
映画は、文字通り2組の夫婦の、それぞれ互いの知らぬ一面(二重生活)と人生を描くことを軸とします。いや、これは横軸で、縦軸として「ストーリーと評論」のダブル表現をテーマとしています。構成もまたダブルの映画なのです。
筒井康隆「文学部唯野教授」は、大学教授の日常を描く「ストーリー」と唯野教授の講義の体で「筒井康隆の文学論」が描かれました。 この映画も同じです。 2組の夫婦のストーリーと、登場人物の会話の体で「アサイヤスの現代批評」が展開されるのです。
アサイヤスの現代批評は出版業界を舞台に語られます。 デジタル化に未来がある。必ずしも好意的でない解釈もある。しかしアサイヤスは自己主張しません。白黒付けずに両論併記します。 「変革期」「過渡期」と何度も言い、「権威」という呼び方で「既存の価値観」を表現します。
穿った見方をすれば、映画業界の暗喩にも思えます。 Netflixなどの配信。既存の価値観としての配給。権威である映画祭が配信作品を排除する現状。 しかしアサイヤスは何も主張しません。 おそらく彼が言いたいことは、この映画の登場人物たちの如く「収まるところに収まる」ということなのかもしれません。 そう考えると、実に劇的な設定にも関わらず、自然体の映画にも思えてきます。
(19.12.25 渋谷Bunkamuraル・シネマにて鑑賞)
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