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[コメント] 天国にちがいない(2019/仏=独=カナダ=カタール=トルコ=パレスチナ)

チャップリンでもキートンでもない。これはジャック・タチ。そして私はジャック・タチと相性が悪い。
ペペロンチーノ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







この監督の作品は『それぞれのシネマ』で短編を1つ観たことがある程度。

その喜劇性はチャップリンやバスター・キートンに例えられることが多いようですが、私はジャック・タチだと思うんです。 チャップリンやキートンは自身が騒動のタネですが、この映画のエリア・スレイマンは、ジャック・タチ同様「傍観者」にすぎません。自身が事件の発端でもなければ解決するわけでもない。彼自身が動くのは小鳥のクダリくらいじゃない?

でも、私はジャック・タチと相性が悪いのです(笑)。その理由を振り返ってみると、「傍観者の喜劇」ってそんなに面白くない。もちろん好みの問題ですけど、能動的に何かを起こすか、受動的に巻き込まれるかじゃないと笑いに向かないと思うのです。オフビートと傍観者は違いますからね。

喜劇に対して能動的でも受動的でもないと書きましたが、映画自体も動かない気がするのです。 いや、画面的には動いてるんです。 正確には、カメラとエリア・スレイマンは動かずに、周囲が動く。走る人、戦車、セグウェイ、小鳥等々、画面を横に縦に前後に映画的な運動が繰り返される。 そういった意味では、画面(えづら)はmovieであり活動写真ではあるのです。 でも、話が動かない。主人公の気持ちも動かないし、観ているこっちの感情も動かない。そもそも主人公の行動の動機が分からない。

結果として、新作映画の相談?売り込み?でパリやニューヨークへ行くことが分かりますが、最初の頃に車椅子や歩行器を処分するシーンがあるんですね。父親なのか母親なのか分かりませんが、介護をしていた誰かが死んだ所から話が始まっているんです。私はしばらくその描写の意図が分からなかった。もしかすると夫人が亡くなったのかとさえ勘ぐった。 推測するに、やっと遠出ができる状況になったから世界と触れる機会を得られたということなのかもしれません。ですが、全然活かされてないし(映画最後に「両親に捧ぐ」的な献辞はありましたが)、物語に何かの関係があるように思えない。

もう少し言うと、この映画がかろうじて活動写真としての体をなしている画面(えづら)についても、そのほとんどが予告編以上のものがない。 その暗喩的イメージがどういう文脈で語られるのかと思ったら、例えば軍事パレードでしたとか夢でしたとか、全部ありきたりな説明がつけられてしまう。その論理的整合性は必要かね?もっと奔放でいいのに。

イスラエルとパレスチナの関係も頭では理解しているつもりです(皮膚感覚では分かりませんが)。隣人との関係がその暗喩なのも分かります。 もしかすると「傍観者=物を言わない(言えない)」ことすら、パレスチナの暗喩に思えます。 ガチな社会派じゃなくて喜劇に昇華(消化)したかったのも分かります。 それは「パレスチナ人」である自分に向けられる「作家としての期待」に対するささやかな抵抗なのかもしれません。

そもそも中東問題は、民族や宗教が絡む歴史的な課題と思われがちですが、全部イギリスの「三枚舌外交」が悪いんですよ。第一次大戦までは案外上手くやってたらしいですしね。 実際私は、この映画も、最近観たイスラエル映画『声優夫婦の甘くない生活』も、民族とか宗教といったことに対する強い訴求は感じませんでした。 問題は「環境」や「状況」なんじゃないかと思うのです。

もしかするとこの映画が描いているのは「望郷」と「状況」なのかもしれません。

そう考えると、イスラエル国籍のパレスチナ人ということが俄然意味を持つ。 自分の居場所、帰るべき場所、それは国とか、民族とか、ましてや宗教といった所属の問題ではない。でも、放浪(ってほどでもないけど)しなきゃいけない「状況」に置かれてはいる。 そう考えると、各地の状況ばかりか自己の状況も「傍観」する映画に思えてきます。

余談 誰にも分からないようなどーでもいいことを書きますが、この日、デンマーク映画『わたしの叔父さん』とどちらを観ようか迷ったんです。結果こっちを観たら『ぼくの伯父さん』だったとさ。

(2021.01.31 kino cinema立川にて鑑賞)

(評価:★2)

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