コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 欲望のあいまいな対象(1977/仏=スペイン)

究極の「女はワカラン」映画。悪魔に魅入られた男というか、キャバ嬢に魅入られた男の話。
ペペロンチーノ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







30数年ぶりに再鑑賞。ブニュエル後期作品のデジタルリマスター版特集上映だったんですけど、その公式サイトにこう書かれていました。

二人の女優に同一人物を演じさせた珍奇な試みで名高いブニュエルの遺作。

公式に「珍奇な」って書かれちゃってるよ(笑)。その「二人一役」について、世界中で様々な解釈がなされたことでしょう。たぶんブニュエル翁は、それを「あの世で」ニヤニヤ見ているに違いありません。「天国で」とは言いません。彼は無神論者でしたから。ちなみにウチのヨメは「どっちでも良かったんじゃない?」というのが二人一役の解釈。つまり、コンチータという一人の人間を愛したのではなく、(コンチータのような)若く美しい女性を愛したに過ぎない、と。

これは究極の「女はワカラン映画」だと私は思っています。フランス映画に多いジャンルですね。不可解な「二人一役」もその一環ではないかと。あとまあ、端的に言えば「こんなに貢いでるのにヤラセてくれない」という、悪魔に魅入られたというか、キャバ嬢に魅入られた男の話。この「出来ない話」ってのがブニュエル翁は非常に多い。『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』や『皆殺しの天使』は有名ですが、前作『自由の幻想』も各エピソードほとんどが「何かをやろうとして出来ない話」と言っても過言ではない。もっとも、この「出来ない話」に何の意味があるのか、いや、そもそも意味があるかどうか分かりませんけどね。なにせ「教訓のない寓話」ですから。

一方で、ブニュエル映画の多く(もしかするとほぼ全て)はキリスト教と無縁ではありません。無神論者のくせに。アンチこそ逆に意識しているということでしょうか。しかしこの映画は司祭も神父もミサも出てきません。たぶん通常だったら、最初の列車で乗り合わせる中に神父がいるような気がします。ところが今回は、似つかわしくない判事や心理学教授というメンバー。この映画の細部に(珍しく)キリスト教的要素が見当たらない。

であれば、映画全体がキリスト教の揶揄なのではないか?「ヤラセてくれない」という男にとっての「試練」あるいは「苦行」を、宗教上のそれに見立てているのではないか?ヤラセてくれない女は処女受胎マリアのパロディーで(ある意味マグダラのマリア的でもあるけど)、男に与えられた試練はキリスト教的「無償の愛」のパロディーなのではなかろうか?正直に言うと、「ヤラセてくれない」って泣く老人の爆笑シーンを見て、カール・th・ドライヤー『奇跡』を思い出しちゃった。申し訳ない。ドライヤーに申し訳ない。こんなふざけたジジイの引き合いに出して大変申し訳ない。

きっと、人の悪いブニュエル翁が残したメッセージなんですよ。 「愛だ苦行だ言うたところで、性欲と何が違うのさ。宗教なんて所詮その程度。はあ?祈れば救われる?じゃあこの世界はどうなのよ。どうせテロだって(ドカーン)」

(2022.01.23 角川シネマ有楽町にてデジタルリマスター版で再鑑賞)

(評価:★4)

投票

このコメントを気に入った人達 (0 人)投票はまだありません

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。