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★4ミッドウェイ(2019/米=中国=香港=カナダ)1937年、日米開戦以前の日本から始まる。 [review][投票(3)]
★4イップ・マン 継承(2015/中国=香港)子は親の背中を見て学ぶ、という映画。親は子を、子は親を「見て」いるし、また夫は妻を、妻は夫を「見て」いる。夫妻は正対して向き合うよりはむしろ並んで立ち(身長差!)、座り、そして背中を預け合う。ごく些細な所作や表情、人物同士の位置関係、時間的・空間的な意識ありきでこそ演出は単なる映像ケレンにとどまらないものになる。見て学ぶ、これこそ映画。[投票(1)]
★5風の谷のナウシカ(1984/日)画面の内外が絶え間なく断続する編集のキレを見せつけられるにつけ、編集とは削る作業だと感じさせられる。流動する世界そのものの全体の中から削り出すべきところだけを削り出し、その一連の断続が広大な世界の断片に宿るなけなしの真実の姿を黙って映し出す。皆が皆、生存圏=生存権を脅かされることで否応ない修羅場が生まれる。それでも一寸の蟲にも五分の魂を見出してしまう感受性ありきの世界。[投票(3)]
★3ガルヴェストン(2018/米)「棄民」という言葉を思い出す。これでもか、というくらいに手元に口元に弄ばれる煙草と酒。「今此処」に居た堪れないという体で行動に駆り立てられる人間。その「地獄」はその場所だけのものに非ず。「今此処」に逼塞させられてあることには必ず由縁はある。逃げ続ける映画、逃げ続ける画面。〔3.5〕[投票]
★3リチャード・ジュエル(2019/米)あまりにも凡庸なその人物に、タイトル「リチャード・ジュエル」は事件の名であって人物の名ではない、かと思わせつつ、しかしやはり最後は人物の名として腑に落ちる。「母親と暮らす醜いデブ」にも五分の魂を見出しえるか否か。描き出される人物への距離が、寄らず離れず、たがそれが映画の品になる。それが演出家にとって欺瞞のない距離だからだろう。[投票(1)]
★3響-HIBIKI-(2018/日)書棚の本をめぐる問答無用のやりとりで、これは本来が「相対」であつかわれる世界に「絶対」をもちこんだらどうなるかと言う話なのだと合点する。故に映画の中のその「文芸」に内実はむしろ無い方がよい。そのかわり映画に内実をこめるのは具体的な被写体としての演者達でこそあらねばならず、映画は光と音のケレンで、それを中心と周縁、即ち絶対と相対の一対一の対決として描き出すに専心する。〔3.5〕[投票(1)]
★337セカンズ(2019/日=米)何度となくユマは寝床で目覚めて、自分の身を起こす。自分の身を起こすというアクションの為の目覚めなのか。女性達が体で表し、顔で伝える。車椅子は聖なる弱者の玉座ではなく、活ける実存の器となる。なけなしの具体性で現実と渡り合ってこその映画、そして物語。ならばこそ、遡行の旅程はより具体的な人生を賭した独力の冒険であるべきではなかったか。〔3.5〕[投票(1)]
★2わたしは光をにぎっている(2019/日)鼻唄。誰の声音なのか、判然とせず、風景の一部のように素気無く流れ去る。叙景的とでも言うのか。しかし活きた人間が不在の風景は、容易く尤もらしいイメージとして消費されるだけのことではないのか。輪郭の曖昧な人と物とを画面の中にそれらしく案配してみても、それだけでは誰も、何も、動き出さない。つまり映画にならない。[投票]
★3火口のふたり(2019/日)「ふたり」である。“ふたりだけ”の映画なのにそこに逼塞を覚えないのは、演者の明朗もあろうが、むしろ「行間を読ませる」よりは行そのものを直截に読ませるような奇妙なダイアログの即物性にあるのではないか。下世話なまで社会的、時代的に阿る台詞も“ふたりだけ”の間に浮き彫りになることで「イメージ」としての即物性を帯びる。「火口」の小噺の一躍の飛躍も共に「イメージ」としての通底性あらばこそ。〔3.5〕[投票(2)]
★3台風家族(2019/日)冒頭のガクブル手つきの描写からして何故か最早作為が丸見えでダメかと思えばやはりダメで全篇空回りの体をなすが、台風襲来のスローモーション以後押し切りの強さで俄かに血が巡りはじめ、辛うじて活劇的に飛躍が飛躍の体をなしえた終幕は、情景が情景として命を宿し得た(ように見えた)。甲田まひるの顔に惚れたのだろう。それは映画的にただしい衝動。[投票(1)]
★3さよならくちびる(2019/日)心理的に去来する挿話の暗黙な了解が、現在の三人の「共犯関係」を担保する。当たり前にありふれた風や光が、ありふれた日常としての三人の旅程を暗黙に祝福する。やりとりされる言葉は核心に触れるようで触れえず、然しかわりに繰り返し嘯くように唄われる「さよなら」が三人の心をむしろ三人のもとへと送り返す。なんとも言い難い、けれどたしかに息衝く人と人の間(ま)の妙。〔3.5〕[投票(3)]
★3キングダム(2019/日)漫画的な漫画原作映画を今更慨嘆しても仕方ないとしても、やはり漫画的は映画的ではない。長澤吉沢がキャラ立ちするのは相対的に心理的演技が抑制されているからで、説明台詞と表情演技の学園内ヤンキー派閥闘争的な相対の構図の中には、言いたいことを言わず言えず、しかしそれゆえに行動で自己を証明しようとする、せざるをえない大人がいない。「ユメ」の一言で相克が背負えるのなら、人間は人間を殺しはしない。[投票(4)]
★5勝手にしやがれ(1959/仏)たとえば「男の子」と「女の子」。問題は此の「と」であって、そこに息衝く断絶と接続の運動こそ映画の全てだと言うこと。圧倒的に輝く光の白や煙の揺蕩が世界の無償の豊かさそのものなら、その中で男女は断絶と接続のキワを生きる姿を喜劇と悲劇の狭間で演じる。視線と視線は映画の視線を介して互いに断絶し合い、また接続し合い、つまりは「愛」を演じる。瞬間ごとに生きている本来の映画、映画の本来。[投票(1)]
★3まく子(2018/日)不意に枯葉が舞い落ちてくる、由縁もなく。枯葉をまきあげる仕草、すらりと伸びる脚腰。☆☆☆は今日も秋風にまぎれこんで巷間を彷徨っているかも知れない。とまれ、ゼロ距離で肉迫してくる女子がじつは☆☆☆でもやはり女子なのは、男子の生理がそう感じさせるからに他ならず、そんな生理には生理で応えてもらえなければ、誰も大人(男女)になれないのじゃないか。[投票]
★4運び屋(2018/米)所謂社会的マイノリティな人達との接触にて禁句的文言であけすけにコミュニケーションするアリー老人を憎めないとすれば、それは自作自演作家イーストウッドの映画的な「徳」故なのだろうし、そんな決して一般化、社会化されない“私性”で人物とその虚構をでっちあげる根性は、それが映画への信に基づくかぎり感動的ですらある。劇中唯一のキャメラ目線は図って観客の目線との無二の切返を演ずる。凄い、と言う瞬間。[投票(8)]
★3半世界(2019/日)あの些か時代がかった“番長”の少年が、ごく微妙に立居振舞にかもしだす「世界」と「世間」の軋轢の片鱗。それは日常の其処此処に潜在的に遍在していて、むしろ「世界」と「世間」の接点でさえある。物語としては唐突に、しかし映画としてはむしろ然もあろうという仕方で訪れる“出来事”、そして天気雨。つまり何かがズレている。しかしズレているその間隙にこそ人生の断面=物語は束の間露呈し、映画もまた映画になる。〔3.5〕[投票(4)]
★3二階堂家物語(2018/日)父は横臥する。ひとり寝、ふたり寝。ことあるごとに彼は布団を敷き、或いは毛布を被り横臥していて、そして目覚める。家屋の外はいつも雨降で、その目覚めを包みこむように雨音が耳を侵す。娘とは親子でも男女でもあるような、縦でも横でもあるような微妙な関係であることが画面の中の立居振舞として印象づけられる。日本的母性の表象としての家屋→雨→横臥。その視線のオリエンタリズム。〔3.5〕 [投票(1)]
★2ハッピーエンド(2008/日)ステレオタイプを揶揄するステレオタイプを今更地で行く恥ずかしさ。この恥ずかしさを恥ずかしげもなくやっちゃうところが、正直学生の自主映画に毛の生えた程度のシロモノにしか思えなかった…。[投票]
★3ここは退屈迎えに来て(2018/日)移動する車内というのは映画的な空間かも知れない。どこからかどこかへと辿り着くまでのモラトリアムの時間そのものの謂いであるとも言える。それはあきらかにこの青春映画の主要モチーフとして展開されている。変わり映えのしない時間は変わり映えのしない空間=土地の風俗へと通訳され(10年前も後も何も変わらない街)、その中を走り続ける車からの視点は、虚無的なようでいて、しかし駆動的でもあり。[投票(1)]
★2鳳鳴 - 中国の記憶(2007/中国)延々と、まさしく延々と3時間うち続く独り語りの物語り。このことを語るに何故この手法でなくてはならなかったのかが分からない。大体、これは果たして「映画」なのか?[投票]