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[コメント] アサルトガールズ(2009/日)

カタツムリという「細部」。

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







一応それは、高度な虚構(ゲーム)の世界を描いた映画である。で、一応その売り物となるだろう虚構(ゲーム)の世界の初めの描写が何で始まるかと思っていたら、これがなんと、カタツムリであった。何故カタツムリなのか。それはそれが、「細部」だからである。では「細部」とは何か。

永井均という哲学者が、そのある著書の中で「虚構の世界が虚構の世界なのは、そこに細部が存在しないことによる…」などというような意味のことを語っていたと記憶するのだが、これはまさに、そういう意味での「細部」なのではなかったか。カタツムリについては映画の中で、キャラクター達と絡む何か意味ありげなシーンもあったりするのではあるが、しかしそれは物語の経済性という観点からすればまったくの無駄で、まるで素人臭い演出家が素人臭い詩情の如きものを映画に挿入しようとして取り入れたかのように見えるシーンではあるのだが、しかしこれは、まさに無意味であるということに意味があったのではないか。それは突出した「細部」であって、物語という全体の意味、ゲームで言えばその結果に寄与しない。しかしそこで敢えて「細部」に目を見張ることは、世界の端的な無意味にこそ目を見開くことでもあったのではないか。

この映画の中で引用された文言の中では、「遊び」の「自由」について語られていたように記憶する。そこで思うのだが、「遊び」が「自由」なのは、それが無意味だからではないだろうか。この映画に描かれる虚構(ゲーム)の世界も、それは一応現実の経済的な生活に資するようなものであるらしいが、しかし先述のカタツムリの示すものは、端的に言ってそんな虚構(ゲーム)の世界の「意味」から逸脱した「細部」への視線なのではないか。逸脱した「細部」への視線は、あるいは『アヴァロン』に見られたような虚構(ゲーム)の世界の中で自己を実現し現実(リアル)を超越しようとする「意志」ともスタンスの異なっている、もっと無意味な、しかしもっと「自由」な「遊び」の境地をこそを示しているとは言えまいか。そして、キャラクター達は、最後はゲームそっちのけで同志討ちを始める。その無意味、そしてその「自由」。ゲームは何の為にあるのか。それは「遊ぶ」為にこそあるのだ。

虚構(ゲーム)の世界の「細部」。それは勿論拵えられたものでしかない。しかしそれはそれでも、世界そのものの無意味、その「自由」をこそ教えてくれるものでもある。押井守がこの映画で、カタツムリなどという「細部」を通して示したかったのは、あるいはそのようなことだったのではないか。それはメタフィクショナルなレベルで機能する「細部」ではあるが、それはそれで、押井守らしいやり口だったようにも思える。

(評価:★2)

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