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[コメント] 新宿泥棒日記(1969/日)

街を自分の体で歩けた最後の時代。吉本ばなながマンガ『鉄コン筋クリート』を評した「自分の町を自分の体で生きたくなる」という言葉を思い出す。東京の映画館で観た時は、映画館を出た時そこに映画の世界が持続しているかの如き感覚を抱いた。

個人的に、この『新宿泥棒日記』とセットでいつも思い出してしまう映画がある。いや、映画というにはあまりに頼りないちょっとした映像作品でしかないのだけれど、それはかつて90年代に存在していた「ダメ連」なる組織(?)のありようを捉えた『にくだんご』というドキュメンタリーなのだった。とは言え作品の内容は全くと言っていいほど記憶していないのだが、思い出すのは何よりもそのタイトルに込められた意味合いであって、それはつまり、ダメな連中でも寄り集まってにくだんごのように一つになれば、怖くもないし寂しくもないという、そんな意味合いであるらしかったのだ。実際、ある上映企画での上映後にはその映画の関係者らしき者が「みんなでにくだんごになろう!」などと呼びかけて、会場の人達に無視されていたりもした記憶がある。(当然だと思う。)何故そんなものを思い出してしまうのかと言うと、この『新宿泥棒日記』とその『にくだんご』という作品(とくにそのタイトル)にこめられた意味合いの狭間にある身体性の差異が意識されてしまうからなのだった。「にくだんご」とはよく言ったもので、それは彼我の差異を無にして一緒くたになってしまおうということなのだと思う。わたしもあなたもにくだんご、つまりそこには「わたし」も「あなた」もなにもない、だからこそ怖くもないし寂しくもない、というわけだろう。だがこれは、ある意味同時代の『エヴァンゲリオン』で描かれる人類補完計画みたいなもので、直観的に言ってグロテスクな発想ではないだろうか。何がどうグロテスクなのかは俄かには表現出来ないもどかしさはあるが、とにかく何かがグロテスクで、少なくとも公共の場で露わにすべき発想ではないように思われてしまう。そこでは、大袈裟に言えば、身体性は彼我の差異と共に融解されてしまうことが目指されていると言える。

では、それと比してこの『新宿泥棒日記』はどこに差異があるのかと言えば、この『新宿泥棒日記』に描出されるところの身体性とは個が個へと収斂する運動としてのそれなのではないかと思うのだ。個が個へと収斂するとは、わたしはわたし、という自覚へ至ることだ。そしてそれが自己同一の自己完結へと至る閉塞としてではなく自己の生そのものとしてのその身体を通して、その環境(この映画ならば1969年当時の新宿という街)を介して自己へと至るということだ。そしてそれが成され得る為にはその身体は抽象的個性を背景にした虚構の身体であってはならなかった。それはそれこそドキュメンタリー的な、横山リエならば横山リエ、横尾忠則ならば横尾忠則、あるいは渡辺文雄でも佐藤慶でも、戸浦六宏でも唐十郎でも、その人がその人であるというリアリズムで以てそこに存在していなければならなかった。無論横山リエは「ウメ子」であり、横尾忠則は「鳥男」ではあるが、しかしそれは彼らが言わばこの映画の狂言回しであるからこそ担わなければならなかった役名でこそあれ、決して虚構の内実をともなった役割などではなかった。彼らは彼らとして、そのままの身体を通してそこに(フィルム上に)存在する彼ら自身であった筈だ。それはつまり、彼らは彼らの自意識を超えたところで、映画というメディアのドキュメンタリー的な本質的視線の前に、その身体を晒していたということでもあると思う。だから、この映画には凡百の映画の如き尤もらしい描写は必要とされない。たとえば横山リエを犯そうと追いかける横尾忠則と渡辺文雄と佐藤慶の場面などでも、明らかにその調子はギャグ演出のそれであって構わない。問題は、そこに横山リエや横尾忠則、あるいは渡辺文雄や佐藤慶の個そのものが、身体の運動を通して映し出されているか否かということなのだ。

しかし身体性と言うのなら、たとえば今日のアダルトビデオの様な性表現というものはある。いや、それを「表現」と呼んでいいものかどうかは疑問ではあるかも知れない。何故ならそこにある(目指されている)のは、「表現」などというまどろっこしい階梯を踏むことをも厭うような身も蓋もない露呈性であるからだ。そしてまた同時にそこにある(目指されている)のは、断片へのフェティシズムなのではないか、という気もする。つまり身も蓋もなく言えば、局部への接視だ。それはしかし、対象となる異性(同性でも…)という他者を細部へと断片化する暴力でこそあれ、決して対象を自己同一的な個全体として認識しようとする…愛(!?)ではない。だがそこに来てこの『新宿泥棒日記』では、かつての性と個(人格)との問題が同一線上で感じられ考えられていた時代の表現が展開される。今日的にはある意味ではまどろっこしく稚拙とも言えるその表現は、飽くまでも性と個(人格)とが相即的に関連しあっている筈だという“古い”感覚の産物なのかも知れないが、しかし同時にそれは、性が対象の個(人格)への愛に基づいているべきだという普遍的なモラルの存在をも思い起こさせる。そしてそのモラルの箍を失った時、恐らく性的な幻想は暴走して、たとえば人類を一塊の「にくだんご」に帰せしめてしまうような全体主義的妄想を産出するに至るのではないか。性的交接、及びその表現というものが私達にとって普遍的に魅惑的なのは、そこに自己と他者の彼我の差異、その懸隔を融解させるが如き幻想がまとわりついているからではないかと思うが、しかしそれは同時に危険性でもあるだろう。その危険性をよく考慮するなら、わたしはわたしでありあなたはあなたであるというのは、絶望ではなくむしろ希望でもある。この『新宿泥棒日記』の性の問題を巡る論議と表現は、つまりは古臭いと同時に普遍的でもある、そんな性の問題をあぶり出そうとしている。そしてその為に必要だったのが、個が個(その人がその人)であるという自己同一的な身体性であり、それは映画の中ではドキュメンタリー的な人物の同定性によって保証されていたのだ。そしてそれが個の中に自己完結して閉塞してしまわないでいられる為に必要だったのは、1969年当時の新宿という街そのものであっただろう。直喩的に言っても、そこではまだ街は、裸で寝転がれる街だったのだ。

劇中、「ウメ子」こと横山リエが、紀伊国屋書店の中で古今東西の書物を紐解きながらそこに恍惚的に身を委ねるというシーンがある。言葉(思想)を自分のものにしたいという欲求が性的幻想と同一のものとして描かれていたのは、そんな時代だったというだけで済まされることだろうか。言葉(思想)との連関を失った性的幻想は、謂わば世界性の広がりをも失ったのではないか。今や性的解放は、しかし実際にはなんの解放にも結びつかず単に場当たり的なその場限りの欲望の隘路を露呈するだけだ。セックスすることで世界が開けるかも知れないという幻想が有効だったのは、恐らくはそこに他者の存在が介在し得たからだ。だがそのセックスさえも類型化されたイメージの商品になりさがり、それと共に他者の存在もまた自己同一的な全体性を喪失した現在に於いては、性的幻想は文字通りに行き場がない。そしてまた自己と他者と第三項としての世界性の坩堝となりうる場として「街」も失われて久しい現在、性的幻想は尚更にタコつぼ化せざるを得ない。身も蓋もなく言えば、そこではセックスは自慰行為に等しいものとなるだろう。他者の存在の具体性、確かな手応えは、恐らくは他者への愛なくして顕現し得ない。繰り返し言えば、そんな古臭いと同時に普遍的な問題こそがこの映画の主題であったし、それは1969年当時の新宿の街、謂わば自己と他者が出会う(ボーイ・ミーツ・ガール!)性的幻想をまとった魅惑的な「街」としての新宿がそこにあったればこそ、可能な主題でもあったのだと思う。そしてそれは、1969年当時の「現在」を今に伝えてじつに生々しい。何故にそのように生々しいのかはある意味映画というメディアに纏わる謎だと思うが、あるいは本質的にドキュメンタリー映画的なこの映画であるからこそ、そこに映り込んだ「現在」は古びることなく映画の上映されるたびごとにそこに「いつ」でもない〈現在〉として顕現するのかも知れない。つまりこの映画の映像には、そこにしか存在しなかった文字通りに掛け替えのない時間こそが記録されているということだ。

(評価:★4)

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