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[コメント] 2001年宇宙の旅(1968/米=英)

壮大なハッタリ。

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







*(『フルメタル・ジャケット』のネタバレあり)

スタンリー・キューブリック監督は言葉なぞ信じちゃいなかったのかもしれない(*1)。映画は言説によって取り巻かれることで固有の意味的脈絡に取り込まれていくものだと思うが、この映画は「見ているもの」を「見て(観て)いること」にとことん拘ることで、全き「見る(観る)」映画になっていると思う。

「それは何か(何故か)」と問うまえに、まずは眼前に表象される映像が、それがそれであるということに気がつくこと。そこからはじまるのではないかと思う。たとえばモノリス、あれは宇宙人の贈り物ではない。いや、そう解釈したいなら宇宙人の贈り物であっても構わないのだが、そういう解釈を受容して納得してしまうのではこの映画に於いてモノリスがモノリスである由縁を「見る(観る)」ことはできないのではないだろうか。あれは、敢えて言えば宇宙の絶対的な虚無そのものだ(つまり何モノでもない)。虚無の宇宙が人類を(見る(観る)者を)時(映画の時間)の輪の中で過去へ、未来へ導いていくのだ。それは眼前に表象されるモノとしての映画に於ける無言の語りべであり、司られた観念の運動そのものだ。その虚無をめぐって解釈うんぬんを戦わせるのは、物言わぬモノリスを前に粗野な叫びを挙げるしかない猿人達と大差ない所業なのかもしれない。

「ビデオで観たやつは感想を語るな!」と監督はこぼしていたらしい。確かにその通りかもしれない。なるべくなら画と音を存分に堪能できる姿勢で観たほうが幸せな出会い方ができるのではないかと思う。「ツァラトゥストラかく語りき」の「曙光」、直列に並ぶ月と太陽と地球だけでもう引き込まれてしまう。これは言ってみれば壮大なハッタリなのだ。大画面に映写されたものを見ていて思ったけれど、たとえば猿人の「発見」、あんなものをさも何モノかであるように解釈しようとするのはそれこそ滑稽以外の何モノでもないように思える。大画面、白骨を打ち下ろす猿人の野卑な顔、そこに超人思想を奏でる「ツァラトストラかく語りき」の「曙光」。馬鹿らしいほど天晴れなヒニク以外の何モノでもない(これも解釈のひとつではあるが)。物言わぬモノリスはひたすら超然とそこに鎮座しながら、猿人達を見詰めているだけ。痛快ではないか。

木星へ旅路を辿るディスカバリー号。その船内での宇宙飛行士達の孤独な生活。地球と遥か時空を隔て、通信機を通じてのみ外部と通じ合うその生活は、メディアに依存してその向こうに外部を想定しながら生活を送る現在の私達の生活に通じるものがあるように思える。また船内空間を縦横無尽に渡り歩くカメラワークは、見る(観る)者の地上的な重力のパーステクティブを揺さ振り、眩暈に似た感覚を起こさせる。更には宇宙空間に無下に放り出され虚しく空転する人間の体、それは人間が重力を失うということが魂を失うに等しいことなのだということを見る(観る)者に焼きつける(頭上に天を頂くことができず、地に足をつけることができない)。人間とHAL9000との互いの存在を懸けた死闘は哀しい。あのHAL9000の声、自らの存在を固守する為に人間を殺そうと企て、命(?)を乞い、果てに論理中枢を破壊され白痴となっていくその声。棺桶のような冷凍睡眠機の中での人間の死よりも、人工知能の死の方が切実に迫ってきてしまうという逆説(*2)。

生き残ったボーマンの目撃するもの。それは何ナノか?何でもない。それはそれだ。銀河とも星雲とも判別つかぬ形象そのもの。天に浮かぶ銀河や星雲の形象が不思議なら、地上の泥の水溜まりに浮かぶ一抹の泡の形象も不思議なはずだ。宇宙の不思議はミクロからマクロまで、あらゆる場所に遍在し、偏在する。ネガ反転され着色された地上の光景、だがやはり、それもそれ。あんな地上を誰が見たことがあるのか。そして辿り着く白い部屋。圧巻なのは、見ていることが見ていたものに(見ていたものが見ていることに)、いつのまにか転位してしまうこと。それがどういうことなのかうまい具合に言葉で語ることができない。けれど映画はこれが可能なのだ。

魂を失った人類の来し方と行く末。無にされた人類の歴史の果てに見出されたものは、他者への畏れと憧れ。そこには監督の極めて私的な感受性が滲んでしまっているようにも思える。人が宇宙の果てで見出すのは、結局は己の内的な宇宙の果てでしかないのかもしれない(*3)。

「見ているもの」、それを「見て(観て)いること」に過剰に拘泥するこのSF映画は、本質的には「B級映画」だといえるかもしれない。「B級映画」の定義にもよるだろうが、形式に拘り、それ自体が見世物となる映画(今風な定義)を「B級映画」とするなら、マテリアルな細部が歪なまでに突出するこの映画は究極の「B級映画」とは言えまいか。(どうせなら伝染病うんぬんのシーン等は映画にほとんど寄与していないのだから、今からでも削って欲しいくらいだ。*4)

1)アーサー・C・クラークは、「映画は小説をレイプしたが、小説も映画をレイプした」ということを語っていたという。これは映画と言語の関係をよく捉えた言葉だと思う。たとえば小説を読むことでそれを映画についての正統な解釈として受容してしまうなら、それは映画の脈絡の多様な解釈の可能性を殺してしまうだけではなく、映画が映画である由縁、それをそれそのものとして受容することもできなくしてしまうのではないだろうか。

2)テクノロジーを連想させるモノ(骨、宇宙船、ディスカバリー号etc)が全て(冷たい)白で統一され、逆にHAL9000の目、その論理中枢などは血を連想させる赤で映し出される。意図された逆説なのだろうか。ちなみに、一般的に出回っているビデオ版には、死に逝くHAL9000に“ I can see.” というセリフがあったように思うが、何故かオリジナル版にはなかった。“I can see. ”と呟いたHAL9000には、何が見えたのか。

3)そこで見出されたもの、それは比喩的に言って不可知の他者としての「女」なのではなかろうか(魅惑的なスターゲイトの光に「女」を見出してしまうのは自分だけだろうか)。初期の『非情の罠』のヒロインや『フルメタル・ジャケット』の女狙撃兵など、監督の映画には捉え難い「女」がいつもその影をちらつかせてきた。この映画も最後には男女の結合の証としての新生児が姿を見せる。そのように考えれば、遺作の『アイズ ワイド シャット』がそうした「女」の底知れなさ、それとのあっけらかんとした和解を描いた映画であったことも肯けるのではなかろうか。

4)そこに描き出される人間同士の対話が、全てすれ違うコミュニケーションを描き出しているという指摘もあるそうだ。

(評価:★5)

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