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[コメント] ニンゲン合格(1998/日)

来し方、行く末。ぽっかり空いた現在。

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







「私は何処から来て、何処へ行くのか」。人が何かに不安を覚えた時、その不安の由縁を問い詰めていけば、結局はこの問いに突き当たるのではないだろうか。人の存在は根本的に不安なのであり、それは己が死の(無の)追い越し得ない絶対的な不可能性の可能性に根差している、と言うのが誰もが知る「存在と時間」の現存在(実存)分析というやつだが、それに則って言えば、かの問いは己の来し方(生)と行く末(死)の狭間に生起する(問い手の)現在(が拠って立つ歴史の来し方と行く末)に対する問いであるわけだ。

「俺は何処からか来た。そして何処かへ行く」。在るはずであった十年の歳月を失い、不意に世界に放り出されてしまった青年は、自ら拘って作り上げた仮初の住処(家族の復縁の夢)を破壊しようとして、そう呟く。それは新鮮な一言だ。如何にも、人は何処からか来て何処かへ行く、それだけなのだ。そこには生の(存在の)重さと死の(無の)不安をぽっかり浮き越した束の間の現在の儚い自由がある。その一言には、「私は何処から来て何処へ行くのか」という問いにどうしても滲んでしまう歴史(という観念)に縛られた奴隷の卑屈がない。

監督に言わせれば、映画に於ける家族は一艘の船のようなものなのらしい。そこでは、運命によって乗り合わせた者達にありとあらゆる情動や欲望、葛藤が盛り込まれ、そうして描出されていく波瀾万丈なドラマを観客は見守っていくことになる。この映画も、虚無の時空を放浪していた青年とその帰還を迎える家族達を描く映画だ。そこで描き出されるのはかつて家族であった者達の束の間の不器用な再会とすれ違い、そして青年の死だ。それは楽観的でも悲観的でもない束の間の現在として描き出され、ふつうの意味での劇的なドラマは何も現出しない。だが、実はこうしたものこそ、私達の現に在る家族なるものなのではないだろうか。黒沢清というひとは(凡な意味で)映画で何かを主張するというひとではない(と思われる)ので、こうした家族を像として描くことが監督の主たる意図だと言うつもりはないが、それでもそこに描き出された家族の有り様は、妙な手応えでもって迫って来ないだろうか。いや、それは何も家族と限定しなくともよい。たとえば中学時代の友達、たとえば妹の婚約者、たとえば歌い手の女。彼らとの出会いと別れは、存在達が離合集散するその儚い自由と仄かな切なさを感じさせてくれないだろうか。人は一緒に居なければならないというものでもないし、ましていつまでも一緒に居なければならないという訳でもない。私は「何処からか来て何処かへ行く」のだし、家族という仮初の船もまた「何処から来て何処かへ行く」、それだけのことなのだ。青年は覚醒(帰還)した時のようにまたひょっこりと死ぬ(旅立つ)(*1)。そして亡き青年が残したモノはゴミと一緒に片づけられるのだが、その中にある机の上には、NYから届いた一枚の絵葉書が置かれている。青年と言葉を交わした歌い手の女から届いた(のであろう)それは、青年がこの世に存在したことの小さいが確かな証なのだろう。

繰り返し言えば、こうしたことを饒舌に語りたいが為に監督がこの映画を撮ったわけではあるまいと思う。だが監督の映画への取り組み方、あるいは監督の存在への距離の置き方(?)とでも言うべきものが、この映画をこういう映画にしたのは確かだろうと思う。(尤もそこには「存在」していることへの眼差しはあっても、実存的に生きられた「時」への感覚は予め排除されているのだけれど。*2)

1)何故かその葬式には映画に顔を覗かせた人達がすべて参列している。菅田俊りりィ哀川翔は魅力的だった。(ついでに言えば役所広司、この人物の「何も言わないが、青年につかず離れず傍らにあって見守る」という立場が面白い。)

2)人物達の離合集散を空間的に描いているところからすれば、これは離合集散する人間的事象をそれ自体として映し出した映画、と言うべきなのかもしれない。(人間的主題の映画というわけではなく。)

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (5 人)moot ペペロンチーノ[*] tredair crossage

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