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[コメント] 鏡(1975/露)

鏡、良心。私だけの追憶。

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







催眠。魂への沈潜が青年の自己を、世界を覚醒させる。

タルコフスキーではない、まったくの他人でしかないこの私には、それは“分からない”。映し出されているものを見て、それを表層的に判別することは勿論出来るけれど、それはこの私の記憶でも過去でもない為に、本当のところではやはり“分からない”。それは判り易い観念、イメージとして公共的に読み取られていく為のものではないのだろう(*)。冒頭にタルコフスキー自身の声が読み上げる親父さんの詩の言葉にも、それは語られている。この詩の引用はタルコフスキーの所信表明みたいなものだったかもしれない。自身の置かれているソヴィエト連邦の唯物論的な社会の中で、私的な追憶の世界をフィルムに焼き付けていこうとするその創作志向は、反動的で闘争的なものですらあったのではないか。「詩は魂の糧であって、偶像崇拝者の為のエサではない」というセリフは、生半可に語られたものではないのだろう。

見ているこの私の記憶に焼き付くのは、草原や森を吹く抜けてくる風、母親(妻と二役)の顔、雨滴る中に燃えあがる小屋。驚くのは、その私的な追憶の映画の中に、不遜なまでに他人の記憶や歴史的な記憶までが取り込まれていること。一個の私は、だがそれに留まらない広大無辺な魂の記憶を宿しているということなのか。それが、現代の日本に生きる貧困で空っぽなこの私には、本当のところで“分からない”(それをその内実に於いて私のものにすることが、私の記憶とすることができない)のも当然かもしれない。たとえば、ラストシーンで少年が挙げる叫び、その声が何を叫びたがっているのか、誰が分かるというのか。

ひとの存在の私秘性(魂)というものを最大限に尊重するなら、それには“分からない”と応えるのが最善の倫理的な態度なのではないか。そう思わないこともない。とは言え一旦映画になってしまった存在はもうその「映画」という記憶の全体からは遁れられず、全てはそこへと回収されてしまい、イメージとして広く公共的に流通する物として(たとえば「商品」という形をとって)扱われることになってしまうのだろう。(邦画の『CURE/キュア』は、この映画に顕著に見ることが出来るタルコフスキーのエレメント的な具象、それへの沈潜によって解放へと導かれていく魂という主題を、恐らくは図らずして空虚な匿名性へ歪めた仕方で反復している映画であるように見える。けれど現代の日本に生きる貧困で空っぽなこの私にとっては、その空虚な匿名性による解放こそが、内実に於いて受け容れられるものであったりする。)

*)その点、タルコフスキーが『2001年宇宙の旅』に批判的だったというのも肯ける。あれはまったく映画の見世物性に開き直った表層の映画だから。

(評価:★4)

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