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[コメント] 赤い砂漠(1964/仏=伊)

目に映るもの全てがわたしを虫食み分裂させる。嗚呼、それにしたってモニカ・ビッティ。(ひたすら見よ。)

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







流布された解説によれば、「アントニオーニ初のカラー映画、深度の浅い画面で色彩の実験を試みた作品」らしい。

なるほど、冒頭の工場のシーンから青く塗られたタンクや配管、赤く錆付いた巨大なタンク、黄色と黒の壁の模様などが、「これを見よ」とばかりに映し出される。またモニカ・ビッティの登場シーンをはじめとして、人物達もその身に纏う色彩によってまわりの風景から奇妙に際立って浮き上がって見えるところがたくさんある。無名の船乗り達の顔をわざと焦点をぼかしながら映し出して、彼らの顔とガラス瓶の碧いクビや壁の模様の青を併置してみたり、かなりやりたいようにやっている。そこに映し出される色彩はこのように語り並べてしまえばひどく凡庸なもののように思えるかもしれないが、実際の画面を追っていくと、まるで作り手は新しいキャメラをはじめて手にした子供のように楽しみながら(世界はこんなふうに見えるのかと驚きながら)撮っていたのではないか、そんなふうに思えたりする。

そんな過剰な色彩溢れる中で、それら目に映るものに虫食まれるかのように精神を破綻の淵にさらすモニカ・ビッティが、その不安に虚ろな眼差しが艶めかしい。その肢体を神経症的な身振りの中で時に硬直させ、時にのたうち回せるその様がなんともエロティック。そこに息衝いているのはエロではなくエロスだ、と言えるかもしれない。つまり、そこにあるのは男性器が女性器に到達する物語の卑小な反復としての「エロ」、その欲望の投影としての女性の肉体ではない。それは触覚そのもの、物に、体に、肌に「触れること、触れられること(見ること、見られること)」そのものとしての「エロス」だ。この映画に息衝くのはモニカ・ビッティをひたすら見詰める男性的なキャメラの視線が捉えるエロスではあるが、映画の視線が見出し、映し出すエロスは本来、男/女の狭間にだけ生起するものではないと思う。「男」も「女」も、生身の人間が生きることになる物語に過ぎない。エロスとは、物語の媒介に寄らぬ(あるいはそれを十全に体現する)瞬間での具体的接触、そこに生起する関係性そのもののことだろう。映画の視線は、時にそれ自体が主体的な視線となって人物の顔や肢体の発するエロスを見出し、あるいは体を寄せ合う人間達の狭間に生起するエロスを映し出す。それは人間達の親密な関係性が存在するところになら何処にでも見出すことができるだろう。この映画のモニカ・ビッティは、ひたすら自分を幽霊の様に見詰めるだけの男性的なキャメラの視線によって、不安を演じる人形であることを強いられている。コテージでの乱痴気騒ぎは小児的な接触の次元に閉塞し、不倫関係を結んでさえも、視線は彼女の体を分節して映し出すのみで、その精神を分裂の病から解放しようとはしない。

幸いフィルム映写されたものを見ることができたが、字幕はほとんど読まなかった。人間ドラマを描き出そうとした映画ではないと言ってよいから、読まなくても大差ない(勿論理想としては原語を自然に聴き取れるのに越したことはないに決まってるが・・・)。それよりいっそひたすら画面を見詰めていた方がよいかもしれない。その方が豊穣な時間が過ごせると思う。

1(青いインク一滴)+1(青いインク一滴)=1(青いインク)。何気に謎。謎がいっぱい(答えのある謎ではない)。個人的には、こういう官能的で謎めいた映画は好きだ。(というか、本来「映画」と呼ぶに値するのはそんな映画だけかもしれない。)

(評価:★4)

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