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[コメント] 東京マリーゴールド(2001/日)

まるこめと電通が贈る朝の食卓・東京生活(OL篇)。「あー、おなかへった!」

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







原作未読。

アーティストのお母さんに、イタリアからの届いたお父さんの絵葉書。それを光溢れる朝のアトリエで読む娘。ヒロインの彼女のバイク便屋の姿を見て、「へえ、そんな女の子のハナシなの」と思ったのも束の間彼女は就職、まあそれは当然としても、彼女が親元に同居しているのを見て、「ナンダヨ」と思った。一戸建てにアーティストのお母さん。ちょっとフクザツなことがあって何となく塞ぎ込んだ気分で家に帰ってみると、ナントお母さん御手製の御味噌汁が待ち受けている家! 羨ましい。彼女には経済的にも精神的にも、「生活」や「居場所」を自力で必死になって維持していく必要は(取り敢えず)ないのだ。自分の気持ちを掬い取ってくれる音楽に束の間身を委ねて「癒し」てもらい、大学の先輩のコネで思っても見ないCM端役出演、街頭でファッション誌の取材に捕まって好みのブランド名をおずおずと答える彼女。何も悪くはないのだけど、つまりこれはそんな女の子のハナシなのだ。

そんな彼女が偶然出会い、つき合い始めることになる彼。「携帯の番号もらってくれる?」なんて、上手いと思った。彼女も「一年間だけつき合って」なんて、これまた上手い。ついこぼれてしまった言葉ではあるのだろうが、何にせよ押付けがましくならないような(自分が傷つかないような)慎重なやり方で接近を図るのだ。まったく賢明なやり方だ。「貴方が好きなのよ!(お前が好きなんだ!)」と強引に突撃、玉砕するほど自分の気持ちに確信はないのだ。(ふつう誰でもそんなものだろうことは分かる。)それでさあつき合い始めたはよいが、彼は彼で昔惚れた女のことが忘れられずについ彼女に嘘をつき(あとは見栄?)、彼女は彼女で未だに「恋に恋して」から抜け切れず、それで何となく「寂しい」から彼と一緒に生活してみたり。でも決して「同棲時代」みたいにはならないのが今風なのだ。(ついでに今風の若いカップルが一緒に作る昼飯は何故か必ずパスタなのだ。)さてそれでついに一年、間借りなりにも一年の時間を共に過ごした彼女と彼。彼女のアタマの中では彼の存在が切ないほどふくれあがって、彼女は辛さに苦悶の涙を流す。だがその苦悶の涙の源は、じつは「彼女のアタマの中でふくれあがった彼」の存在でしかなかったりする。つまりそれは彼女のアタマの中の問題に過ぎないわけだ。(「ミカンの高橋くん」はいなくなればいなくなったで時が経てば忘れ去られていく存在に過ぎない。)それがつまり、「恋に恋して」いたということ。彼女は結局、あることが切っ掛けとなって「気持ちに整理をつける」ことができ、彼のもとを去る。彼の嘘を知って完全に彼から解放された彼女は、「あー、おなかへった!」と(お母さんの後を追い)駆け出していく。ちょっとだけ大人になった彼女は、明日からまた頑張って生きていくのだ。(それで今度は、あの彼女に気のありそうな大学の先輩とつき合いはじめちゃたりするのだろうか。)

細部をあげつらいたくなってしまうのは、彼女の生活があまりに上げ底されたものに見えたからかもしれない。ふつうに東京の片隅で一人で生活しているOL(勿論地方出身者)なんかの方が、余程切実にロンリー(笑)なハートを内に秘めて日常を生きていたりするのではないか?(*1) だが逆に言えば、あげつらうに足るほど彼女の生活を描き出すに細部に配慮のある映画ではあったわけで、映画を観賞に足りる作品へときちんと仕上げた製作者達の技量はしっかりしているのだと思うべきなのだろうか。

市川準は‘上手’な監督なのかもしれない。「東京」を主題にし続ける映画作家とも言えるのだろうが、それと共に(今風な需要にきちんと応える映画を過不足無くつくっていくことのできる)職人的資質もある監督なのかもしれない。(もとがCMディレクターだから?)与えられたネタで、取り敢えず観賞に足りる映画をつくる。その静かな傾向のある映画はテレビ画面で見てしまうと退屈な映画になってしまうようにも思えるのではあるが、あるいはそれはテレビ画面であることによる情報量の減退のせいで細部に動いているモノが死んでしまうからなのかもしれない。それが死んでしまうことによってそこから生み出されるはずの独得の雰囲気とも言うべきものが消えてしまうのだろう。この映画でも画面の端で何気にたくさんの人間達が行き交っていて、それがヒロインの独りっきりの時間を漠然とだが静かに柔らかに取り囲むことで(*2)、東京の街並を人間の物語が可能な場所として映し出しているようにも思える。働く若い娘達、ホームレスのオッサン、子を連れた買い物の主婦、道行くコギャル、職場の同僚や先輩、眠りこけてるおでん屋の親父、偶然出くわした芸能人etc。思えば東京は日本で最もたくさんの人間が生活している街だ。それ故にそこでつくられる映画にもとにかく画面に人間達が行き交う。「東京」を主題にし続ける映画作家としての市川準の秘密はそんなところにあるのかもしれない。ヒロインの彼女が、叶わなかった恋からの不意の解放を見出したのであろうあのCMは、人間達のキャッチボールのリレーがモチーフだった。あれを見た彼女は、それまで思っていたのとはちょっとだけ違った自分がそこにいることを発見したのだろう。「そこに私はいる」。誰かから受け取ったボールはまた誰かに投げればよい、「そこに私はいる」。東京は、そんなふうにひとを不意に解放することもある街なのかもしれない。そんなことを思わせる映画ではある。

1)若い女性に限らない。たとえば冒頭でちょいとだけ映った(弁当をパクついていた)バイク便屋の若者、彼の生活はどんなだろう。おそらく彼は、四畳半で共同トイレ・風呂ナシの安アパートなんかに住んでいて(そこまでひどくないかも)、食事は全てコンビニ弁当(andインスタントの味噌汁)。それで給料日の夜は同僚と飲んだ後に風俗に繰り出すのだ。休みの日は競馬、競輪。金も無く暇な時はテレビ観賞。そんな生活なのだ。でもそれだって東京生活者だ。彼の視点から見た東京はどんなふうに見えるだろう。(あ、『たどんとちくわ』?)

2)取り囲みはしているが、けれどそれらのモノが決して映画の物語に介入してくるユニークな存在として際立ってこないことが、映画に‘雰囲気だけ’という物足りなさの印象をもたらしていたりするかもしれない。(劇中、「見ることがもたらすイメージの残酷さ」のくだりがあるが、それはモノを中途半端に見ているから「イメージ」に呑まれてしまうだけのこと。モノをよく見定めて、それがそこに存在することを発見すること、それが「見る」ということではないか。)

(評価:★3)

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