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[コメント] A.I.(2001/米)

スピルバーグの語る「2001年 愛の旅」。壮大で矮小なるロール・プレイング・ゲーム。〔3.5〕

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







*(『アンドリューNDR114』のネタバレあり)

ついに虚構の「愛」から逃れることができず、みずから「存在していること(=魂)」を見出せなかった存在は、やはり「モノ」に過ぎないのではないか。彼は旅の途上でついに何も発見することができず、虚構の「愛」をインプットされた「モノ」としてその一生(?)を終える。

ごくふつうの(幸福な?)人間の子供のように、「私はこの世の誰かの子である(私は比類なきスペシャルでユニークな存在である)」という物語から生い育つことが出来た者ならば、むしろその物語からの解放をこそ望むだろう。親子の「愛」の物語は、その裏に「憎しみ」の物語をも孕んでいるが、いずれにせよ人間はそんな「人間の物語」から己を解放し得た時にはじめて「魂(=存在してること)」を見出せるはずなのだ。それを見出せるのでなければ、それはどれだけ高度な知能を有していようとも、「(存在する)モノ」、生まれて育ってきたことの物語(その延長)を無自覚に生きる者、つまり誰かの所有物(子)であるに過ぎない。

「人間の物語」、「私はこの世の誰かの子である(私は比類なきスペシャルでユニークな存在である)」という、「愛」という名の虚構を得ることだけを望み、それを果たす為にだけ存在した憐れな「メカ」の物語。そんな、木偶人形がついに木偶人形でしかなかったというこの物語をどう受け容れたらよいのか(*1)。穿った見方をすれば、オスメント君の如何にも「演じてます」という演じっぷりは、むしろ功を奏したかも。

「その愛は真実なのに、その存在は偽り」なるキャッチコピーがずっと解せなかった。「存在」が「偽り」なら、「愛」もまた「偽り」に決まっている。そこには「魂(=存在してること)」の自覚が欠けているのだから。(「存在は偽り」とはそういうことでしか有り得ない。)束の間蘇生した偽りの母親が、偽りの息子に向ける「愛」、その関係は「偽り」か、否か。「偽り」であろうとも取り結ばれた関係自体は「真実」だ、とは言えるが、それは酷く絶望的な光景には見えないか。

「愛」だの「真実」だのと、よい歳こいて喋繰ってるのはハズカシイ(笑)。(←自嘲)

私的な感じ方を言わせてもらえば、私は「愛して頂戴!」という如き哀切極まるノリが好きではない。昔テレビのドキュメント番組で、今は亡き父親の愛を実感できないトラウマ(?)を背負って苦悩している娘が、その心理療法として死んだ父親相手のロールプレイをするというのを見たことがある。部屋の中央に何の関係も無い男性を寝かせて、それを死んだ父親と見立てさせて娘に思う存分難詰させるのだ。そこに本当の父親はいないのに、である。そこに本当に訴えかけるべき父親の魂は存在していないのに、である。とても気分が悪かった。それでその娘の「トラウマ」が癒されるのだとしたら、結局人間の直情的な「愛」にまつわる執着など一人よがりなロールプレイでしかないということではないか。私が他者に到達できないのは当然だ。それが「私」ということなのだから。では何故彼女はそれに執着するのか。自分の為だ、自分が癒される為だ。それが「愛」? だとしたらあまりにくだらない。そんな心理のオモチャであることが「人間の条件」なのだとしたら、私は人間になぞなりたくない。いや、現実にはそのような心理のオモチャとして動かざるを得ないのだとしても、それを己の実体と思い込むようなことはしたくない(*2)。

映画の本編上映の前、スピルバーグ自らが語る「2000年」の言葉に面食らった。予期していない分だけ驚いた。けれど本編では、単に「2000年後」のタイトルが付されるだけで時間は呆気なくすっ飛ばされてしまう。この生きた厚みを欠いた時間の感覚は何なのか。スピルバーグが多分に意識したように思える『アンドリューNDR114』は原題が『Bicentennial Man』(「二百年を生きた男」?)だったが、あの映画には二百年を存在し続けるということがどんなことだったのかが感覚として分かってくるようなところがあった。アンドロイドが愛する女と共に死を得て完全に人間となることで閉じられるその物語自体は出来のよいふつうの「人間ドラマ」だが、この両者の時間の感覚の違いは何に由来するのか。やはりスピルバーグは実質的な無時間の中で遊びたがる子供なのではないか、とも思える。

余談だが、セックス・マシーンジュード・ロウの「カチッ」には笑った。キューブリックならあのセンスで全編仕切ったかもしれない。実際キューブリックが手懸けたならジョーが物語の主軸になったようにも思える。“I am.I was.”という、彼の最後のシンプルなセリフが私は好きだ。

1)このディヴィッド少年の存在を、「映画」とのアナロジーで捉える見方もあるみたいだが(人間などこの世から消え去っても、それでも上映され続けていく「映画」)、それはその歪さに於いて胸をわかせるヴィジョンではあっても、実体としてそんな映画がどのようなものなのかは分からない。人間がいなくなっても、空疎に「人間の物語」を反復し続けていく「映画」とは、一体全体何なのか。

2)そのプロセスが必要なひとが、それを経ることによってそこから解放されるのであれば、それは「方法」としては当然アリだと思う。

(評価:★3)

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