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[コメント] ピストルオペラ(2001/日)

組織の犬より気分の猫…ちゅーことですか。「わけわからん」と言うほどわからなくもなくなってしまったのは、そこに「宇宙の不思議」が欠けているから。

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







“百眼”とは、ひとつには勿論この映画のキャメラの眼、つまりはこの映画を見詰め続けようとする私達の無数の眼のことであって、その眼に晒し者にされ続けるしかなかった“野良猫”は、その眼に、つまり“百眼”に本当に勝利するためには、みずから自決してその姿を抹消して見せる他に道はない。

口の端に神経症的な歪んだ笑みを浮かべた男(沢田研二)の屍体で幕を開ける映画。犬(男)"達"の時代が過去へと潰え去ってしまっても(*1)、それで猫(女)の時代が到来するのかと言えば、そう単純なものでもないらしい。猫は猫で、寂しく孤独な自分を持て余して、いたずらに自分で自分を慰めてやることくらいしか出来ないでいるらしい。預かり知らぬところから勝手に始まった潰しあいのゲームの中を生き残ろうとする“野良猫”は、生き残っていく為に我知らずかつての何も出来なかった無垢な自分を殺し、また将来そうなっていくかもしれない醜い自分をも殺す。だがそれでも彼女は潰しあいのゲームから自由になれない。まだわたしを見ている無数の眼が、“百眼”がいる!(それはかつて潰しあいのゲームを始めて、その中で死闘を繰り広げて死んでいった犬(男)"達"の亡霊の眼なのかもしれない。)その無数の眼から自由になって本当にゲームを終わらせる為には、私が私になる為には、私は私を殺さなくてはならない。

「見るな! 触るな!」

屍体はわたしだけのもの

* * *終* * *

たとえば、『ツィゴイネルワイゼン』や『陽炎座』に色濃く滲んでいたあの陰鬱とした“わけのわからなさ”のようなものが、「自己模倣」と評されるこの映画で消えてしまっているのは、男と女のつがい、あるいはそこにもう一人をくわえた巴(ともえ)の関係の中で物語をつくっていくことができなくなってしまったからではないでしょうか。(スジなどわからないように見えたそれらの映画も、やはりそれは打ち続いていく茫漠とした時間の「物語」であったのだと思います。*2)『夢二』で、夢二(沢田研二)を軸に三つに分裂した女は、今度はついに男を押し退けて主役となってしまいました。(今度は自分の中で縦(時)系列に三つに分裂してます。)地獄への道行きの相方を失った女は、自分の中で自分との葛藤の三文芝居を演じる他ないのかもしれません。この映画の“野良猫”が、自分で自分を慰めざるをえなかったのは、なんだかんだ言って、やはり彼女の相手足りうる男がいなかったからではないでしょうか。この映画そのものが「自己模倣」と評されてしまうことも、故無いことではないと思えます。

物語の「宇宙」、あるいは宇宙の「物語」は、ふたつのものが互いに関係しあい運動が生じることで始まり、生成されていくものだと思われます。その意味では、この映画にはそんな「宇宙の不思議」とも呼ぶべきもの、ふたつのものの狭間にひろがる闇の深淵が欠けているのではないでしょうか。ついに己を開放することができず、孤独へ閉塞していかざるをえなかった女の話。切ないと言えば、切ない。

…でもね、好きなんです。あー、ピストルがほしい。

1)それ故に、野郎のナルシスティックなダンディズムを唄っているかのような大和屋竺作詞・歌唱の『殺しの烙印』主題歌は、おぼろにメロディが奏でられるだけなのかもしれない。

2)そこには、演じる者(あるいはそれを見詰め続けようとする者)が厳しく自分と向き合わねばならないような意味の無さや退屈さがあった。

(評価:★3)

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