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[コメント] WXIII 機動警察パトレイバー(2002/日)

引き摺られた「昭和」、引き摺られた「押井守」。“風景”の方法論だけ受け継いで、マニアックな猥雑さ(過剰さ)は同時上映ミニパトに取り分け。出来は3点でも、見応え2点。…そんな感じ。

アニメーションで、たとえば雨に濡れる女のエロスを感じるなんて、どういうことなんだろうか。それはそれで何かの達成だったりするのか。

切り取られていく日常の“風景”が、キャラクターを示し、間を繋ぐ。だがそれらの“風景”はそれ以上に何かを見るものに語り掛けるわけではなく、物語はいつもの川井憲次節に呑まれて、どこかで見たことのあるメロドラマに流れ着く。その物語の主役を演じるのがこれまた不可解なことにこの映画だけのキャラクターである若い刑事。今更2課の面子を主役にするにはパトレイバーは時流を過ぎてしまった題材ということなのだろうか。定番キャラクター連中を敢えてメインキャストから外すということが可能だったのは、“風景”で物語ろうとする方法論を取ったが故なのだろうけど、それでどこまで物語に実質的な厚みをつけられるのか。そこには何があり、何が動いていることになるのか。動いていくキレイな絵。それはそのようなものに過ぎないのではあるまいか。

自分達が抱いたイメージをなるべく繊細にこころゆくまで表現したいというのは、ものを描く人達には誰にでもある欲求なのかもしれないが、それだけで作品をつくってしまったら、それは単なるオタクの自己満足にしかならないのではあるまいか。どこかで見たことのあるメロドラマ、どこかで見たことのある怪獣映画。それを自分達の手で繊細に描き出すこと。だが、それは何の為か。

劇場版のパトレイバーの1作目と2作目は、押井守という作家性とは切り離して考えられないように思う。その作家性による牽引の故に、劇場版のパトレイバー2作は「映画」足り得た。厳しく言えば、作家そのものを欠きながら、その作家性の残骸に依拠して仕上げられたように見えるこの作品は、それを利して、なお且つ「パトレイバー」という商標に依拠して作品"らしく"仕上げられた“商品”に過ぎないのではあるまいか。

同時上映の短編「ミニパト」3部作。個人的には3作目しか観なかったけれど、これで3回劇場に通わせよう、通うだろうなんて思われているのだとしたら、それはやはりあまりに閉じた可能性のないハナシだなと嘆息したくなる。かつてのアニメファン、パトレイバーファンで、今はふつうの映画の一観客として観にいく客は、なれあいを押し付けられたみたいで居心地の悪い思いをするのでないか。自分はそうだった。面白いことは面白いのだが、やはりそれは内輪の楽しさだ。如何にもアニメアニメした「ミニパト」のOP観ながら、「中年には酷な服さ」と2課の派手な隊服をボヤく後藤隊長のセリフ(2作目)を思い出した。

※以下2014.4.5追記

テレビで「劇場版」3部作を通しで放送していたのを観て、この作品も再見した。押井守の2作と比べるのは酷過ぎるにしても、続けて観てしまうとやはり落差に愕然とした。とくに1作目があまりにも真っ当に活劇していて、画面連鎖のタイミングだけで既に「映画」足り得ていて面白すぎて感動しちまうくらいだったので(こんなハイレベルな傑作を当時は当たり前の作品だと思って観ていたのだと感激して涙出た)、この作品の死に体ぶりが際立ってしまっていた(あらゆる意味で魂がまるきり欠けている)。新作の実写版は、どうせ創るのなら本気で力いっぱいやって欲しいと思う。

(評価:★2)

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