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ハイタカさんの人気コメント: 更新順(1/24)

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★3レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ(1989/フィンランド=スウェーデン)「その他大勢」の映画。レニングラード・カウボーイズの集団としてのシルエットは、とりあえずそのルックの統一と無表情演技にあるとは言えるが、それはけっして貫徹されず、その雑駁な集合が牽引にゾロつきながら歩きまわる様は、映画の中に主体なき主役としての「その他大勢」という奇態な実存を生み出すことになる。その奇態な実存あってこそ、サウスアメリカ裏街道という背景との微妙な距離感も生きる。けにろん, 3819695[投票(2)]
★3万引き家族(2018/日)点と点が線で結ばれ、線と線から面が生まれ、面と面が組み合わされて立体となる。一見末節同士でしかないような事象相互によって「社会問題」のモジュールが出来あがる。だがそこに内実を感じない。苦悩を生きて告発する中心的な肉体を感じない。映画的に彼ら彼女らを結びつけるのが互いの視線の絡み合いであるならば、ラストショットは映画から現実を睨み返すような逆接的な直視こそ欲しかった。〔3.5〕緑雨, ゑぎ, セント[投票(3)]
★3blank13(2017/日)小品的な小品、つまり自己完結的。「ブランク」の露呈が三文即興劇的に終始する様子はけっして映画自体の印象を攪拌することもなく、言わば70分の尺のその又半分だけの内実しかないが、そこにはたしかに美点もある。松岡茉優のごくありきたりな「受胎告知」の場面に、ふと「聖なる瞬間」なんていうフレーズが浮かんだ。「人生」の機微はそんな「聖なる瞬間」の密やかな積み重ねにこそあるのだと。ぽんしゅう, けにろん[投票(2)]
★5この世界の片隅に(2016/日)「戦時下」がやがて強いていく、内心と肉声の背反。しかし背反ではあっても乖離ではなく、むしろすずさんはその背反からこそ、じしんの中にあられもなき実存を見出していく(エロティックでさえあり)。「戦時下」と言う″悪″さえ人を覚醒させる(良くも悪しくも)。喪われたことにただ怒り、喪われたものにただ泣くこと。やっぱりのんさんに主演女優賞。緑雨, ぽんしゅう, 寒山, DSCHほか6 名[投票(6)]
★3山の焚火(1985/スイス)姉弟、父母、祖父母の三世代の人間、三組の男女しか出てこない。遠眼鏡、虫眼鏡、あるいは手鏡や姿見は無論「見る」為の道具だが、それで見いだせるのは御互いに合わせ鏡のような存在でしかない肉親同士のみ。見つめ合うことは御互いを呪い合うこと。呪いによって結びつけられる男女=夫婦=家族。それ故に蠱惑的な「家族」の死の物語り。Myrath, けにろん[投票(2)]
★3永い言い訳(2016/日)道化的に相対化される奇矯な立居振舞の束の間、ふと疎外された子供のような覚束ない表情を見せる本木雅弘。演出・演技による造形の実体はそこにある、ように見える。場面と楽曲の編集に於けるシンクロが全体に渉る映画のリズムを生み、本当の心=涙が一筋だけ然りげ無く頬を伝う一時の、そのために映画は描写を積み重ねる。世界と人生は自意識の器ならず、という自得。 〔3.5〕 けにろん[投票(1)]
★3百円の恋(2014/日)Hungry/Angryの張り紙。一子は食べる。誰も彼もが食べる。何皿もの餃子、コンビニの焼うどん、百円バナナ、ぶ厚すぎるステーキ、湯豆腐、弁当屋の弁当、カップヌードルはカレーもシーフードも食べる。画面の中に日常的な背景を描くに何気に層化された演出もなくはなく、主演女優の奮闘のみならずサポート。〔3.5〕DSCH[投票(1)]
★3ゴースト・イン・ザ・シェル(2017/米)スカヨハの義体演技も肉襦袢コスも、バトーのカメラアイも、日本語のたけしも、過剰広告なビル群の街並も、露骨すぎるオリジナルリスペクトも、だいたい話の体裁の為だけみたいな自分探索問答も、全部が全部、尤もらしいというより胡散臭い。でも、それがいい。そんな胡散臭いものども犇いてこその「映画」。そのさ中に肉体の役者、役者の肉体が息づいてあることのかけがえのなさ。YO--CHAN, けにろん[投票(2)]
★4レディ・プレイヤー1(2018/米)童心を介して通じ合う作り手と受け手という構図も仮想と現実に関する教訓も、児童娯楽映画の体裁に過ぎずそれ以上でも以下でもない。それよりなにより観客を映画に繋ぎとめるのは、あのじつにまどろこしく、まぎらわしく、それ故愛らしい半端なアクセスギア(?)の設定あれこれ。活劇は飽くまで生身の運動によって展開されるという原理の担保でもあり、それはゴッコ遊びとしての映画そのものを無辜の饗宴となさしめる。ゑぎ, Orpheus, おーい粗茶, けにろん[投票(4)]
★3アウトレイジ 最終章(2017/日)自殺ならぬ自決。自分のための他人、他人のための自分。生還以後の北野武のモラルはつまるところはやはり贖罪としての「献身」。「若い衆やっちゃった…」。自作自演のスター監督兼俳優にだけ許される『許されざる者』の末路。演者達の活力の欠乏がむしろ作劇の負の活源として画面を跳梁する。笑って泣く道化の映画。〔3.5〕disjunctive, ぽんしゅう, DSCH[投票(3)]
★3シェイプ・オブ・ウォーター(2017/米)何と何がどうなっても構わないのだが、半魚人の彼と唖者の彼女が「愛し合う」ことになる決定的な場面・挿話に欠けている。怪物と人間が男と女の関係になるのに、想定されるイメージを画面の中の実存が内から突き貫き物語を転回させるような瞬間がなければ、人物の相克に真実は見出せない。その意味で迫害者のキャラクタリゼーションのほうが豊か。〔3.5〕緑雨, ぽんしゅう, けにろん, ぱーこ[投票(4)]
★4メイド・イン・ホンコン(1997/香港)無駄肉のない逆三角なサム・リーの精悍な両肌の若者らしさ、その体勢の前後への傾斜のチンピラ加減が映画のキモとしてこれ以上ないピースとして輝く。死せる乙女の肖像に憑りつかれ夜ごと繰り返される夢精(自慰ならぬ夢精!)。深いフォーカスで見せる狭く薄暗いビル回廊と遍在する生活音ノイズが香港の街の空間=空気を言外に浮かびあがらせる。それを呼吸する人物の息衝く息遣いさえつたわってくるかの如き「青春」の映画。けにろん[投票(1)]
★5火垂るの墓(1988/日)無数の蛍の火は、無数の命の火で、それは朝になれば無惨な無数の骸になり果て、まとめて葬り去られるほかない。兄妹は赤い炎につつまれ、あるいは自らが赤い炎そのものとなって闇の色、光なき光(赤色)として灯り続ける。その社会、その時代、その関係、その自分で出来うるかぎりに精一杯生きて、そして死んだ。その事実。それだけの映画。最良の宮沢賢治のような戦争文学映画。Myrath, けにろん, 寒山[投票(3)]
★3復讐・消えない傷痕(1997/日)「俺、今どこ走ってんだ?」 [review]クワドラAS, ぽんしゅう[投票(2)]
★3白い花びら(1999/フィンランド)サウンド版サイレント。トーキーではない、という意義は、カウリスマキ的個性にはむしろ過剰に適合的に運用された。なれどサイレント・モノクロの映画としての画面造形は達者で、サイレント・モノクロの映画とは、何より事物と人物のクローズアップ(その構図)による映画なのだということを感得させる。3819695[投票(1)]
★4コントラクト・キラー(1990/フィンランド=スウェーデン)ジャン・ピエール・レオーありきの映画。画面の端でごく何気なく当然のように、しかし唐突に後ろ足でドア蹴とばして閉めるとか、この人しか出来ない芸当。そしてそれが可笑しい。プロットも出色で、どこまでも深刻になりきれないアンチサイコロジカルなレオーがカウリスマキの世界に絶妙にフィットして、隙だらけの様が隙なく完璧。3819695, ゑぎ[投票(2)]
★3カラマリ・ユニオン(1985/フィンランド)カウリスマキ演出のダンディズムとリリシズムとユーモアのエッセンスを抽出したらこんなん出ました映画。如何にも若者らしく、映画的映画であることの可能性と限界。カウリスマキの場合、カウリスマキ的個性が偶さかに映画に合致するだけで、映画が自ずからカウリスマキ的個性に合致する訳ではない。ゴダールの場合は後者。〔3.5〕ぽんしゅう[投票(1)]
★4絞殺魔(1968/米)煩瑣な分割画面の前半から意識の遠のいていくようなホワイト・アウトの終幕に至る演出的なグラデーション。後半の白い尋問室にはあきらかに演出的に「何も無い」。そして正気を辛うじて保っていた人間がそれを遂に喪失する瞬間を画面に刻み込む微スロー。演出手法が着実的確に運用されるという意味で堅実にハイレベル。寒山, ゑぎ[投票(2)]
★4アウトレイジ(2010/日)ほぼ例外なく殺った奴は殺られるという北野武的ゲームの規則(鉄則)。そしてゲームはいつも50対50で終る。でなければゲームが存続し続けることが出来ないからだ。「命には平等に価値がない」とでも嘯くような、暴力映画に於けるある意味でのネガ民主制。さず, DSCH, TOMIMORI[投票(3)]
★2リバーズ・エッジ(2018/日)25年のトンネルを抜けてきた物語は、その近過去との微妙な距離をあつかい兼ねている。だが何より25年前の若者達が歳月を経てまだこの世に生きているという事実が、その微妙な距離を必ずしも退嬰に陥らせない。ヘタな翻案よりはむしろこれでいい。人間を「集」で描くと時代が出るが「個」で描くと普遍が出る。個=死の観念を切実にめぐるかぎりは物語が木乃伊化することもない。ぽんしゅう[投票(1)]