「チャップリン」(システム既定POV)の映画ファンのコメント
けにろんのコメント |
のらくら(1921/米) | お決まりの浮浪者チャーリーの部分よりアル中ブルジョワに扮した部分の方が笑えるのは、明朗ギャグで最底辺から権力を穿つポーズより権力層内でのヒエラルキーをシニカルに露呈してみせる方が間尺に合ってるからだろう。これは後年の『独裁者』を思わせる。 | [投票] | |
チャップリンの殺人狂時代(1947/米) | 大不況下の絶望感を滲み出させてソクソク身に沁みる物語だけに、トレードマークは脱ぎ捨てても残るチャップリンの尻尾が煩わしい。有名なラストの演説も戯言にしか思えない。何故なら物語は其処に収斂するようには組まれていないからだ。 | [投票(6)] | |
巴里の女性(1923/米) | 女性の自立史を独逸映画→仏蘭西映画→伊太利亜映画とでもいった構造的色調の3段変化で見せ、思いはメリエス『カリガリ』から『アンダーグラウンド』等に至る映画史に遡及せずにはおけぬ傑作。男はミューズパービエンスの糧でも天寿を全うできる。 | [投票(2)] | |
街の灯(1931/米) | ベタベタな情に流されそうに見えて、やるべきとこでは意外なほどにスラプスティックしている。その醒めたバランス感覚こそがベタを押し通させるのだ。でなけりゃ半素人相手に何十回もリテイクを出せるだろうか。その冷徹こそが本物を産み出す。 | [投票(2)] | |
ニューヨークの王様(1957/英) | 犯罪としての戦争を斬った『殺人狂時代』の大言壮語から反転して身の丈レベルで非米活動委員会を揶揄する。そこに近未来のマスメディアへの『モダン・タイムス』を彷彿とさせる意匠での風刺が加味され集大成の趣き。そしてチャップリンの哄笑芸の見事さ。 | [投票(1)] | |
サーカス(1928/米) | 地上10数メートルの綱上で猿に顔面を覆われて平然と命綱を外す芸への矜持があるからこそ、この厳しいまでの孤独感の表現に納得させられる。チャップリンの作品でここまで胸抉られるラスト他に見たことが無い。しかも例外的に非情緒的で乾いてるのだ。 | [投票(2)] | |
ライムライト(1952/米) | 『黄金狂時代』から『モダン・タイムス』までの4作品で映画という空間芸術の粋を極めたチャップリンが老いてロンドンの無名時代のバーレスクに回帰したのは矢張り老残だと思う。年寄りの理想郷願望に付き合うのは疲れる。 | [投票(1)] | |
担え銃(1918/米) | 後の『独裁者』で巨視的・複層的な展開を見せる題材としての戦争だが、芸としてのギャグが豊富ではあるにしても手放しでは笑い切れない。傍観者的ポジションでのアプローチであって未だ怒りの萌芽は無いのだ。当然サディスティックでもなくペーソスも無い。 | [投票] | |
犬の生活(1918/米) | 警官をおちょくりまくり、ベタギャグを執拗に反復し、野犬の群に噛まれまくるチャップリンに偽善の仮面を未だ知らない青年期の生々しさを感じた。であるからこそ、流れと分断され取って付けたかのようなラストが清々しい。 | [投票(1)] | |
チャップリンの 独裁者(1940/米) | 独裁者パートは時間に追われる設定がスピード感を煽りギャグ積載量も豊富で澱むところ無くチャップリンの潜在悪意が垣間見える際どさ。その分そう悪くもない床屋パートが凡庸に見えてしまうが、恒久平和をベタベタに謳いバランスをとる。食えない野郎だ。 | [投票] | |
チャップリンの 黄金狂時代(1925/米) | 靴食などの飢餓表現が笑いのフィルターを通して尚、切ないまでのリアリティを感じさせ伝説的ないくつかの名シーンは至芸と言っていいのだろうが、これでもかのメロメロな情がてんこ盛りで、その過剰さがチャップリンの自己愛をときに垣間見せてしまう。 | [投票(2)] | |
モダン・タイムス(1936/米) | ラング・クレールの延長線上に立脚したチャップリン集大成にして最高到達点。工場とスケートリンクの至宝級の芸に加えて「悪声」の不協和音爆弾が歴史を刻印する。ドライなユーモアと程良いペーソスが絶妙の配合。完璧である。 | [投票(4)] | |
キッド(1921/米) | 問答無用のジャンルオリジナルであり全ての追随者に踏襲された原点であるにも拘らず不可侵の高みを堅持する。ある意味不純物ゼロの絶対映画。クーガン坊やの巧いことったら神懸り的でエゴイストチャップリンが自分が喰われること覚悟で撮った唯一作。 | [投票(2)] |