「蓮實重彥ベスト141」(寒山拾得)の映画ファンのコメント
ジェリーのコメント |
イノセント(1975/伊) | 冒頭シーンのあまりに絢爛な赤、あの生命の赤が、映画の進行とともにどんどん消えていく。残るのは、落魄の青と沈黙の白。捻りもどんでん返しもなく映画は時間そのもののように進み行く。 | [投票] | |
ファミリー・プロット(1976/米) | 二つの無関係の筋が次第に絡んでゆく様を上手に見せる。一部の筋に「北北西」が入ってないか? | [投票(1)] | |
悲しみは空の彼方に(1959/米) | 完璧な中年婦人向けメロドラマ様式の中で展開される美の無政府主義。ここではN極とN極が接しあい、N極とS極が離れあう。スーザン・コーナーが白い花に顔を埋めて泣き崩れるシーンの何といういかがわしさ! 人種の壁を砕かんとするこの傑作映画の反倫理性に戦慄せよ。 | [投票] | |
ガートルード(1964/デンマーク) | 映画の殻をやすやすと突き破り、60年経った今なお今日性を保つ傑作。俳優の出入りや、言葉の応酬、意表をつくストーリー展開あらゆる視点で凡百の映画がたちうちできない緊密度を有する。なおかつ、画面は1930年代の古風さも併せ持つ。主人公の確信に満ちたビジョンと自律性、一貫性で、人物造形の金字塔を打ち立てた。 | [投票(2)] | |
リリー(1953/米) | 正調MGM流の映画作りに惜しみなく拍手を送りたい。美術、撮影、音楽ができの悪い脚本をしっかりとカバーした。レスリー・キャロンとパペットたちとの対話のシーンの筆舌に尽くしがたい美しさ。ここが踏み台となって見事な少女の成長物語となっている。 | [投票] | |
熱砂の秘密(1943/米) | 俳優たちは緊密な演技をしているわりに、予想とさして違わない捻りのない展開で終わる。演出レベルと脚本のレベルが違いすぎないか? サスペンスというジャンルではなく、犠牲的精神の美談と捉えた方がよく、その胡散臭さ、古臭さが鑑賞後も付きまとった。 | [投票(1)] | |
地獄の黙示録(1979/米) | 間違っても明確な目的のために川を遡行したと思ってはならない。下流域から出発した瞬間から目的探しの旅にすりかわっているという事態に我々は気づかねばならない。描かれているのは1960年代末の混沌としたアメリカ。アメリカがベトナムに介入した瞬間から、目的探しという晦渋な行為をアメリカ国民は強いられてきたのだ。 [review] | [投票(4)] | |
ハメット(1982/米) | 映画におけるハード・ボイルドは小説のそれとは異なる。小説では文体は乾いていなければならないが、映画では画調は濡れていなければならない。この点、この映画は失格。ささくれ立っていて全然駄目。 | [投票] | |
華氏451(1966/英=仏) | 繰り広げられているのは唾棄してもよいレベルの幼稚なストーリーなのだが、火の色と消防署の赤色、主人公の家の室内のオレンジ色という強烈なカラーレーションが実に奇抜。SF映画としての美術設計も、映画草創期の空想科学映画の古色を帯びかえって斬新。 [review] | [投票(1)] | |
クレオパトラ(1963/米) | [ネタバレ?(Y1:N1)] 噴飯物扱いされるし退屈であるという批判も正しいと思うが、それでも男と女が恋焦がれあって、観客という衆人の目の前で情死のように死んでゆく姿は、近松心中劇を好む日本人の心の琴線には触れるものがある。リズの豊満な胸も顕わな衣装も好きだと公言する。 | [投票(4)] | |
現金に体を張れ(1956/米) | ドキュメンタリーの感覚をフィクション映画に持ち込み強いインパクトを生んだ手腕は今も鮮やか。周到な犯罪計画が紡ぐクロノメーターのようにメカニカルな鋭角性が最大の魅力だ。この鋭角性にデジタルの病理性が持ち込まれてキューブリックの輝かしい60年代が始まる。 | [投票(2)] | |
ガルシアの首(1974/米) | 「動機付け要因」としての賞金ではなく、「衛生要因」としての賞金が描かれた初めての映画ではないか。金にすら本気になりきれない駄目悪党として描かれたウォーレン・オーツの、女にだけは真剣な愛情を注いでいる姿に快哉の賞賛をかけてあげたくなる。 | [投票] | |
恋のエチュード(1971/仏) | この愛のかたち(おえ〜)は全く納得いかないと映画を見つつ激しく立腹した人もいると思う。そういう私もその一人。そこですでに術中にはまっている [review] | [投票(8)] | |
クレールの膝(1970/仏) | 人物背景に布置される樹木の艶や、木漏れ日の煌きや、画面に入り込む湖の波立ちの加減が、その前景で行われている主人公と友人の女流作家の心理戦の卑猥さを隠しているのか顕しているのかどちらとも取れる両義性に感動する。微妙な露光が身震いするほど良い。 | [投票] | |
カサノバ(1976/伊) | 過剰な色事について描いているわけだけど、過剰な何かは何であれどこか滑稽である。夢中で食事していると突如そのことを恥ずかしく感じさせる力がこの映画にはある。 | [投票] | |
ラ・パロマ(1974/スイス) | 完全にネタばれを書いちゃうので→ [review] | [投票(4)] | |
ストレンジャー・ザン・パラダイス(1984/独=米) | シーンがカットするたびに暗転するモノクロ画面がVERY COOOOOOL! というところに、とりあえず5点をあげたい。「とりあえず」と書いたのには訳がある。それは→ [review] | [投票(3)] | |
ミツバチのささやき(1972/スペイン) | 薄々感づいている大事なことを、全身で知る瞬間の恍惚と不安のない混ざった気持ち。 | [投票(3)] | |
アンナ・マグダレーナ・バッハの日記(1968/独=伊) | 映画の理想としての音楽。 [review] | [投票(1)] | |
大人は判ってくれない(1959/仏) | できたての傷のひりつくような感じ。空に吸われていく揮発性の液体のような少年の心。粘つかない反抗。 | [投票(2)] | |
勝手にしやがれ(1959/仏) | 映画史的にいまだに事件であり続けている数少ない作品の一本。この方法論が決して主流にはならないという意味で永遠の革新性をもち続けるだろう。どんでんを排したぶった切ったような編集と、主人公の行動や考え方が、リリカルに共振する美しさを評価すべきと思う。 | [投票(2)] | |
緑色の髪の少年(1948/米) | スーパーマンといいバットマンといいスパイダーマンといい、アメリカ映画においては孤児たちが主役となるとき、選ばれた能力をもつ「無徴」の者だけが採り上げられてきた。1948年という時代において、選ばれなかった「有徴」の孤児を採り上げた本作の視点は驚くばかりに独創的だ。 [review] | [投票(1)] | |
めまい(1958/米) | 映画によるヒッチコックの女優論。呪縛された女性を描くヒッチコック作品の中でも最高のできではないか。もちろん、キム・ノヴァクのため息の出るくらいの美しさによるところ大。 | [投票(4)] | |
飾窓の女(1945/米) | 筋立てのうまさは流石ナナリー・ジョンソン。面白く見られた。犯行現場と女の家、飾窓の女の絵があるクラブが主要舞台だが、このセットにリアリティがあるから作品全体が引き締まる。雨の路上シーンもいい。ただしラストは今や古臭すぎる手法となった。 | [投票(1)] | |
イワン雷帝(第一部・第二部)(1946/露) | ロシア歌舞伎。目をむいて大見得を切る人がいっぱい。 | [投票(5)] | |
第3逃亡者(1937/英) | いきなり犯罪が発生し、いきなり主人公が犯人にされる、というヒッチタッチの典型作品。ホテルのバンケットホールの描写はこの監督しかやらない神技。 | [投票] | |
素晴らしき放浪者(1932/仏) | 映画の中に教訓をもちこむことへの、自由意志に基づく断固たる拒否を感じ、そこがフランス風に知的だ。型破りなキャラクターに見ている我々もが激怒し混乱し疲れ果てる。ミシェル・シモンの演技の巻き込む力は確かに見ものだが、ここまであくが強いのは好みではない。 | [投票(2)] | |
十字路の夜(1932/仏) | パリ近郊のうらぶれた街に巣くう「下層」と「異邦」の人物たちのしがなさを、群像劇として提示しているところ、『ゲームの規則』を撮った巨匠の落款まぎれもない作品。ヴィナ・ヴィンフリートの哀切な寄生虫ぶりは、ノワールを彩る数多のファム・ファタールの中でも上位に来る。 | [投票] | |
スピオーネ(1928/独) | 長いとは思うが、バウハウス風の美術が今では斬新。ストーリーにフィットしてる。登場人物もかなり魅力的。 | [投票] | |
暗殺のオペラ(1970/伊) | 反ファシズムの凋落が、没落した農村の描写として鮮やかに表現された。現実とはかくも重いのかと、息苦しくなる。どのショットも奥行き感が圧倒的だ。観る者を引きずり込むような老人だらけの風景。画面にあふれかえる草木の緑と西瓜の赤が、主題と見事な対位法をなす。 | [投票(2)] | |
夏の嵐(1954/伊) | 愛憎のすさまじい振幅ぶりに、座席から転げ落ちそうになるほどの衝撃を受ける。人間観察の揺ぎ無い自信に裏打ちされた主役二人の造形には、個性的であると同時に普遍的であるという一級芸術品のみが持ちうる特質が刻み込まれている。非の打ちどころなし。 | [投票] | |
捜索者(1956/米) | 弱い映画ではなく強い映画だと思う。傑作であることも認めよう。しかし、この映画は病んでいる。青い空のもと浮かび上がる赤い砂地の強烈なコントラスト感に注目しよう。これが、この映画の本質的病巣の最も顕著な露呈点である。 [review] | [投票(7)] | |
シェルブールの雨傘(1964/仏) | 彼らは歌によって自らの出征を伝え、伯母の死を伝え、未婚のままの懐妊を伝えていく。登場人物の夢想の部分を主として担ってきた歌の機能の革命的拡張。その結果、そう珍しくもないプロットに満ちた映画が糞リアリズム映画に堕さずに古雅な神話のような光彩を放つ。 | [投票(3)] | |
女は女である(1961/仏) | こういう小品を律義に見る楽しみを生涯の映画鑑賞の中で何度か味わってきた。30年も前に見た所感(1回目の批評)をReviewに残しておくが、長い隔たりをはさんで二度見たくなる力が映画にあったということ。軽やかなかわいらしさが60年保持されているという驚き。 [review] | [投票] | |
バンド・ワゴン(1953/米) | ショウ・ビズ界のプロジェクトX。 [review] | [投票(1)] | |
脱出(1945/米) | 映画のどの瞬間にも安易な予定調和やご都合主義を感じさせるところがなく、本当に一人一人が仕事をやり遂げてしまうのが、ホークス映画の登場人物たち。生きているように彼らは行動する。 | [投票] | |
霧の波止場(1938/仏) | 「事情」ある男や女の「事情」の説明はほとんどない。映画が「説明」ではないことを証明するには最適の、明瞭な骨格を持った教本的映画。解釈の規則(コード)は一つだが多様な解釈をとりうる映画もあれば、解釈の規則(コード)が多様な結果として解釈が多様になる映画も存在する。この器の大きさが映画の魅力なのだ。 | [投票] | |
いちごブロンド(1941/米) | ジェームズ・キャグニーと若者達の殴り合いに拍手喝采した人がいたら、その人は古典時代のアメリカ映画アディクトと言えるだろう。主要人物は本音で生きており、憎めない人間ばかりになっている。観終わった後、湯上りのように良い気分でいるはずだ。 | [投票] | |
フィラデルフィア物語(1940/米) | さっと目の前をとおりすぎてしまった車のようで何が何やら分からぬうちにこの大人のおとぎ話は終わっていた。おいかけもしなかった。 | [投票(1)] | |
死刑執行人もまた死す(1943/米) | 俳優を情け容赦なくいたぶるさまはヒッチコック以上。このいたぶり具合は、ナチズムとその時代の非道さの表現と思いきや、その次元をはるかに超えるラング作品の本質だし、まさに魅力である。 | [投票] | |
暗黒街の弾痕(1937/米) | 追いつめられる−−−ラング映画の基調がこの映画では無垢のまま表われる。新婚旅行先のホテルの池で蛙をじっと見つめる、ヘンリー・フォンダ とシルビア・シドニーがとても哀しくいとおしい。 | [投票(1)] | |
踊らん哉(1937/米) | この映画に限らず踊っていないときのフレッド・アステアを一言で言えば尻餅をつく横目にらみの男。ようやく1940年代になって演技が人並みになってくる。踊りだけが突出しすぎたこの不器用さはブルース・リーにも似る。ジンジャー・ロジャースのオールラウンド振りは彼との比較で実に際立つ。 | [投票] | |
我輩はカモである(1933/米) | クレージーキャッツやドリフのギャグの原点。鏡のマネや落ちてくるシャンデリア、いろいろ思い当たる。脱線に次ぐ脱線で、我々が常套的に思い描くストーリー進行は破砕される。特に今回、戦争という大真面目な行為の喜劇的側面が極大まで誇張される。この破壊力、誰も超えられない。 | [投票] | |
赤ちゃん教育(1938/米) | この映画を見るには通常の2倍の集中度がいる。柔な神経ははねつけられる。 | [投票(2)] | |
鉄路の白薔薇(1922/仏) | あまりの濃さと長さに、1日正座し続けたような気分だが、最後の山頂のシーンの清浄感は気が遠くなるくらい素晴らしい。 | [投票] | |
サンライズ(1927/米) | 映画の精華である。ジャネット・ゲイナーはこの作品で第一回アカデミー主演女優賞をとった。オリビア・デ・ハビランドタイプの美人です。 | [投票] | |
キッド(1921/米) | 涙腺のツボを心得た映画。これと「黄金狂時代」のエンディングが一番良い。悲壮感がなくて。 | [投票] | |
散り行く花(1919/米) | 自分の指で口元を動かしてほほえみの表情を作るところ「嘘だろ」と思うが、リリアン・ギッシュ のリリアン・ギッシュ 性を見事に表現したシーン。人形と人とのアンドロギュノス。映画ならではの人物造詣の最初の到達かもしれない。 | [投票] | |
周遊する蒸気船(1935/米) | 西部劇ではなく、南部劇。ちょっと他の映画じゃ見られない風変わりな人物ばかりで、赤塚不二夫の漫画を想起させるほど。アン・シャーリー 。このサイレント映画風の透明感ある女優はめっけもの。 | [投票(3)] | |
駅馬車(1939/米) | この前後2・3年がアメリカ映画のトーキー後の最高傑作時代という気がする。本作品はその中の金字塔。 | [投票(1)] | |
河(1951/米=仏=インド) | 河のほとりから階段をおりて河に入る。ほとりに佇むことは許されない。片足を失った退役兵にも、家族を失った姉妹たちにも河に入るべきときを自ら考え自ら実行すべきときが確実に訪れる。「受け入れる」ことの大切さが圧倒的な画力で静謐に主張された作品。 [review] | [投票(1)] | |
ゲームの規則(1939/仏) | 人物が、監督の指図によらないかのように動くという稀有の事態。虚構を見に来るためにやってきた観客の前に展開されるのは現実以上の現実。「必要とあらば映画の中に社会を閉じ込めてみせる」とでもいいたげなゆるぎない自信を感じさせる映画。ただし、 [review] | [投票(1)] | |
丹下左膳餘話 百萬両の壷(1935/日) | 被写体が動くことにより映画の価値が生まれるという生無垢の基本原理が全ショットであらわである。とにかく佐膳と子役と壷がよく動く。この動きを動きとして面白く見せるのに不動の被写体があえて取り込まれている。それが女達で、この静と動のずれが上等のユーモアを生む。 | [投票(5)] | |
西鶴一代女(1952/日) | たった2時間で女一代を描いてこの圧倒的な量感。田中絹代が42才で娘を演じきって凄絶です。 | [投票(2)] | |
父ありき(1942/日) | 親と子という後期の主題に集中し始めた頃の作品。音の劣化が激しい。 いったいに戦前の日本の映画会社って原版の管理が良くないと思う。 | [投票] | |
晩春(1949/日) | 前作と一転して夢の如き中流家庭を舞台に「娘の結婚」にはじめて取り組んだ小津監督の本流作品の1号。原節子に変質的な「父親フェチ」を感じ取った人もいるはず。 | [投票(4)] | |
東京物語(1953/日) | 比類ない堅牢な様式。聖性と俗性の対照の妙。精妙なカット割り。視線の鋭さと描写の柔らかさ。日本映画の頂点をなす作品です。 | [投票(1)] | |
祇園の姉妹(1936/日) | ぽんぽんと機関銃のように向こうっ気の強い言葉が飛び出す芸者おもちゃとおっとり型の姉の梅吉の対比が分かりやすく、歯切れのよい演出とともに快い映画の律動感を生む。悔しさ、執着心が抽象化・社会化せずに具体的で私的なものであり続けるのが溝口映画。 | [投票(2)] | |
非常線の女(1933/日) | 小津安二郎のギャング映画。田中絹代と水久保澄子は配役逆ではと思うが。 | [投票] |