★4 | 撮影者の交代が功を奏したのか、カメラを三脚に据えることを覚えたナ・ホンジンの第三作は、長尺化症候群の悪化をものともせずに馬鹿馬鹿しくパワフルだ。例の祈祷合戦シーンを筆頭に、光景は妥当性の裏付けを意図的に欠いたまま奇態の度ばかりが右肩上がりに増してゆく。まったく横紙破りの筆圧である。 [review] (3819695) | [投票(4)] |
★4 | これはもう濃い映画ですなあ。我等日本人たちには血の色まで違うのかなあとまで思わせる韓国映画の凄まじさであります。何が凄まじいかって? [review] (セント) | [投票(3)] |
★4 | 信じる信じないや嘘や本当ではなく、信じたいか信じたくないかの願望。そこに明確な根拠はなく、提示される「あからさまな怪しさ」に人はひたすら引き摺られ、惑わされる。その弱さに「悪霊」は付け込み、しまいには人そのものが「悪霊」になってしまう。真実は常に苦く、願望の前に脆弱である。古典を踏まえ、大袈裟ながら誇張ではなく、事実こんなものだと納得させられる。ラストは泣いた。こんなものに人は勝てないのだ。 [review] (DSCH) | [投票(2)] |
★4 | 前2作に比べ急旋回だが喪失への身悶える哀惜感は一貫。終盤これでもかと引っ張る信じるか否かの煩悶。判らぬままに人はそれでも決めねばならぬが判らぬでは済まない。だがその結果は往々にして最悪路を選択してしまうのだ。御詠歌のような諦念に充ちている。 (けにろん) | [投票(2)] |
★4 | 韓国のホラーの特徴として、悪霊が何を目的としているのかが全く分からず、見てるこちらが混乱しっぱなしだが、とにかく異様な迫力で怖いというのがあって、まさに本作はそれが突出した作品でもある。見所はふんどし姿の國村隼。 (甘崎庵) | [投票] |
★4 | 「(悪霊は)私だ。」、「私だ。」、「私だ。」暇を持て余した神々の遊び。 [review] (Soul Driver) | [投票] |
★3 | 話の通底にある啓蒙の教化力とそれに伴う実証精神がシャーマニズムを喜劇に見せずにはおかない。そんな中にあって悲劇を構成するのが、どこかで致命的な選択をしてしまったという、難病物が追及する感傷に近いものである。 [review] (disjunctive) | [投票(4)] |
★3 | 常識人が描いた薄味の狂信。クライマックスの延々続くカット・バックに辟易とした。 [review] (寒山拾得) | [投票(3)] |
★3 | 信じるより疑う方がたやすい。信じることは人に努力を強いるから苦しい。憎悪の対象さえ見つけて(作って)しまえば、人は平穏でいられる。だが、信じることの放棄は不安ももたらす。この矛盾は心を媒体に伝播し世間の空気を作る。疑うことの悪魔性についての奇伝。 [review] (ぽんしゅう) | [投票(2)] |
★3 | 映像は撮れているのだけれど、物語はどこに焦点が合ってるんだか分からない。 [review] (t3b) | [投票(1)] |
★3 | どのコメントもなに言ってんのか良く分かりません。 [review] (るぱぱ) | [投票(1)] |
★3 | 國村の怪演あっての本作だ、というのは誰もが異論のないところだろう。後は、それで結局物語はど何だったのだ、という問いが残る。
[review] (KEI) | [投票] |
★2 | この映画を単純に「つまらん」と言えない空気感の方が映画よりよっぽど面白い。 [review] (G31) | [投票] |
★1 | 見る人に理解させようという気がまったくない、雰囲気だけの映画。そして何となく雰囲気で「悪魔」とか言われても乗れない。 (水の都 ヴェネツィア) | [投票] |