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[あらすじ] 仁義なき戦い 代理戦争(1973/日)

呉で小さな一家を構えていた広能昌三(菅原文太)のもとに、人を介して山守義雄(金子信雄)が復縁を求めてきた。仮釈の身で事業基盤も弱かった広能はこれを受けるが、後に自分を利用するためと知る。山守の老獪さに不安を感じた広能は、広島・打本会会長、打本昇(加藤武)が神戸・明石組実力者と兄弟盃を交わすのに手を貸す。広能にしてみれば、自衛のための安全保障のつもりだったが・・・。前2作の流れが一本にまとまるシリーズ3作目。102分
G31

1作目で描かれた呉のヤクザ抗争は山守の一人勝ちに終わったが、広能と山守の間にはしこりが残った。2作目の広島抗争を制したのは村岡組だが、当の村岡親分が引退を考え始めたため、跡目を巡り抗争の火種がくすぶった◆昭和36年、村岡組長の直参舎弟で唯一生き残った打本は、最有力候補としての地位を固めるべく、呉・広島の若手有望株らと兄・舎弟の盃を交わした。だが彼の問題点は、地位は自らの力で獲得するものだという気概に欠け、いわゆる盃外交に奔走したところだった。その年の暮れには、日本最大のヤクザ組織、神戸・明石組の実力者である相原重雄(遠藤太津朗)と五分の兄弟盃を交わす◆打本は、それまで事業(運送会社)中心でやってきたため、渡世上の付き合いはあまり広くない。代わって明石組との間を取り持ったのが広能だ。彼は若い頃から旅を打つ(実際には、刑務所に入る、の意味らしい――筆者注)ことが多かったため顔が広く、特に明石組の若衆・岩井信一(梅宮辰夫)とはじっ懇だった◆広能にしてみれば、興行の手配等、なにかと目を掛けてくれた叔父貴格(この時点では盃を交わした後なので兄貴分)打本に対する恩返しであると同時に、親分・山守の身勝手から身を守る為の後ろ盾と頼んでのことだった。打本にしてみれば、すべて組長の村岡に一目でもニ目でも置かれたいと考えての行動だったが、これが結果として裏目に出る◆翌37年、余所者(明石組)と手を結ぶ打本が許せなかった村岡は、古くから付き合いのある呉の山守義雄に組を譲る事を発表。村岡の主だった子分は、みな山守と盃を交わし直し、山守組の傘下に入った。こうして、実力者だったとはいえ、呉の一ローカル親分に過ぎなかった山守義雄は、広島県下最大のヤクザ組織の大ボスにまで昇り詰めたのである◆新生山守組の幹部連中のうち、松永弘(成田三樹夫)、江田省一(山城新伍)、広能らは、打本からも舎弟盃を貰っていた。だが、打本自身の不甲斐なさもあり、打本の器量の狭さに愛想を尽かした彼らは、そろって盃を突き返してしまった◆当時、全国進攻作戦を展開中の山口…もとい、明石組が、これを黙って見逃すわけはなかった。明石組の狙いは、次期後継者の最右翼と見られた打本を勢力下に置き、広島を押さえることだったからだ。打本本人の器の問題はともかく、与えてしまった菱のバッジの重みは大きい。神戸から乗り込んで来た相原、岩井らは、呉の長老・大久保憲一(内田朝雄)を仲裁人に立て、打本と山守組幹部連との兄・舎弟盃を強引に結ばせてしまう◆このとき、岩井から旗幟を鮮明にすることを求められた広能は、自分の立場を悟り、明石組側に立ってこの盃再交に積極的に関与した。これが後に、抗争勃発の直接的な原因となっていく◆山守新組長から若頭に任命された武田旭(小林旭)は、明石組に押し切られた打本との盃事の背後に、広能が動いたことを見抜く。そして、日に日に明石組・中国支部の色合いを強めていく打本会への対抗上、神戸に本拠を置くもう一方の雄、神和会への接触を水面下で図った。この頃、明石組、神和会それぞれの配下組織が、全国各地で小競り合いを繰り返していた。それは世間から、明石組と神和会の「代理戦争」と呼ばれた。ソ連とアメリカが東西両陣営を代表し、互いに手を出せないまでも各地の局地紛争に介入していったのと同じ構図が、ここ広島でも生じたのである・・・。

(評価:★4)

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