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[あらすじ] カルメン故郷に帰る(1951/日)

「聞いたか、東京へ家出して“リリー・カルメン”とか言う名でダンサーになった、きん(高峰秀子)がここ信州に帰ってきたとよ」「おまけに仲間のダンサー(小林トシ子)まで連れて」「故郷に錦を飾ったてなわけかい」「しかし出迎えた校長先生(笠智衆)はド派手な格好の二人に腰を抜かしたらしいぞ」「しかも、ダンサーはダンサーでも、実は裸踊りだと言うでねえか」「東京では裸踊りでなくストリップと言うんじゃ」「村の若いもんが変に影響されんか心配じゃのう」「しかし裸踊りも面白そうじゃ」「ひとつ見にいってみるべえか」「おお、そうするだ」。[86分/カラー/スタンダード]
Yasu

日本初のカラー映画(当時は総天然色と呼んだ)。この作品には国産のフジカラーフィルムが使われている。映画用のカラーフィルムを開発した富士フィルムにカラー映画制作を依頼された監督協会が、松竹の木下恵介監督に白羽の矢を立てたのが話の始まりである。

これを受けて木下監督は脚本の準備にかかったが、問題になったのは、当時のフジカラーフィルムは感度が非常に悪かったことであった。現在は感光度400ほどのフィルムが一般的になっているが、当時のフィルムの感光度は6しかなかったそうである。このため、カラーで撮影するには十分な光量を確保できる場所でなければならず、それなら快晴の野外しかないということになった。すなわち、ストリッパーが里帰りして、晴れ渡った田舎の空の下で踊りまくるという設定は、この必要から生まれたわけだ。

光量の問題だけではなく、「色がどのように写るか」というのもまだ不明なところが多く、メイクには念入りなテストが繰り返されたという。Aというメイクを下地に塗り、その上にBのメイクを重ねれば、Cという理想の色が出る、という具合だが、俳優ごとに皮膚の色は違うため、一人一人このテストが何度も繰り返された。この作業は野外でなくスタジオの中で行なわれたため、ライトを大量に使うことになり、そのあまりの熱さ・まぶしさに、俳優の髪につけている油が燃えだしたり、テストが終わってライトを消してもしばらく目が開かなくなるということもあったそうだ(ただし盲人でサングラスをかけている役の佐野周二だけは平気だったとか)。

それほどまでに試行錯誤しておきながら、笠智衆の場合はどうやっても自然な顔色が出ず、とうとう「腐蝕した銅像」(高峰秀子談)のような顔色で写ることになったという話も残っている。

これに加え、カラーが失敗した時のために備えて、モノクロフィルムでも並行して撮影した。そのため、俳優やスタッフはカラーでの撮影が終わってすぐモノクロの撮影に臨むということになったし、アフレコの吹き込みや編集も2本分こなさなければならず、労力も普段の倍かかった。なお木下監督自身や大方の出演者はモノクロ版のほうが好みだったというが、それはカラーの撮影の後にモノクロでの撮影をしているため、役者の演技がこなれているためであるらしい。

ちなみに、当時のフジフィルムはまだカラー映画のプリントを量産できる体制になかったので、地方の劇場などではカラー版の代わりにこのモノクロ版が上映されていたということだ。

カラー版のほうは、当時のプリントでは赤が朱色になるなど淡い色調で、「水彩画のよう」と評されたが、後年になって作り直したプリントではかなり鮮やかな発色になっている。

(評価:★4)

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