A | ★5 | Dr.Tと女たち(2000/独=米) | 伝統的スクリューボールを基底とした女だらけで化粧の匂いが充満するかのような濃厚な前半も、フェリーニが匂う終盤を経ての達観したかの如きラストも良いが、仕事も家庭もどうでもいいぜ、悩みなんかぶっ飛ばせとばかりの嵐の中の結婚式が真底見ものだ。 | 投票(1) |
A | ★5 | 地球は女で回ってる(1997/米) | フェリーニのようなものではなく混沌とした内実が希求する表現が深層のところで合致し吹っ切れた領域に突入したアレンの里程標。ゲスな女狂いは必至こくメガネ親爺の七転八倒によって緩衝され小説世界のナンセンスと混濁してフィナーレに雪崩れ込む。 | 投票(1) |
A | ★5 | ギター弾きの恋(1999/米) | 虚構の実人物という『ダニーローズ』以降の得意ギミックが鮮やかに決まり物語は切ない追憶へ昇華される。言葉を失ったアレン版ジェルソミーナは爪弾く調べに笑顔で語るしかない。失って初めてわかる掛替え無い理解者。どストレートな喪失感が胸を打つ。 | 投票 |
A | ★5 | 太陽に灼かれて(1994/仏=露) | ミハルコフが親和するチェーホフ的世界に切り込まれるタルコフスキー的前衛は故国近代史への錯綜する想いを表出し、ソビエト映画史を概観するような感銘。ズーム使いは後期フェリーニ・ブニュエルを想起させる。泥臭く且つ圧倒的な映像美。 | 投票(1) |
A | ★3 | アレンジメント 愛の旋律(1969/米) | 『8 1/2』的自己探求と言えば聞こえは良いが単なる不倫の自己釈明と思えなくもない。どっちにせよカザンの想いは1人よがりで普遍化されているとは思えずニューシネマ勃興期に登場した出遅れのフェリーニもどきの感が拭い難い。これは老残であろう。 | 投票 |
A | ★3 | 狂わせたいの(1997/日) | リンダやみちよの70年代歌謡に郷愁を感じたかったのだが刑務所の面会所での「他人の関係」だけが強烈に画面とフィットしただけで、あとはどうも何か違う感じだ。寺山の暗部とフェリーニの陰部を足し廉価に俗で割った挙句に内向している。 | 投票 |
B | ★5 | インテリア(1978/米) | 神の不在と女の性というベルイマン2大要件から神学的前衛を除いたエピゴーネンだとしても姉妹、親子、そして夫婦の確執は腰が据わってドラマラスな醍醐味を満喫させる。自分本位の基準による統御は周囲を歪ませる。破綻と崩壊から新たな世界が始まる。 | 投票 |
B | ★5 | アイズ ワイド シャット(1999/米) | 最先端の過激度は無い替わりに極上の器が用意され、鬼面人を驚かすハッタリの替わりに揺れ動く心の襞の細部をも精緻を凝らして描くキューブリックの新局面と思われたのに…。クルーズとキッドマンのかけ合いには後期ベルイマンの匂いがある。 | 投票(6) |
B | ★2 | サクリファイス(1986/スウェーデン=英=仏) | タルコフスキー美点のたゆたう時間軸は平準化され、ニクヴィストが捉える空気や火や水は平板で陳腐。ヨセフソンが問う神の在不在には借り物のベルイマン臭が横溢。しかも、退屈な『鏡の中にある如く』を彷彿とさせるのが尚辟易させるのだ。 | 投票 |
C | ★4 | 帰って来たヨッパライ(1968/日) | 軽佻が底知れぬ痛みに根ざす『地下鉄のザジ』的スラプスティックを、クタール的ポップな色使いとゴダール的コラージュで彩る。全きトレースだとしても大島なりの才気ほとばしった希有作。バカ話にも『絞死刑』を経た者にしか行けない領域がある。 | 投票 |
C | ★3 | 薔薇の葬列(1969/日) | ギリシャ悲劇を基盤に置いたものの、パッションの表出は文字の挿入や時間の解体などゴダール的手法に囚われる余り多分におざなりである。あるのは60年代末のゲイカルチャーの記録価値であり、ピーターのスター性より小笠原修の哀感に惹かれる。 | 投票(3) |
C | ★2 | 新宿泥棒日記(1969/日) | 多分に場当たり的であり1個の街の名を冠した巨視的視点での構築からは程遠い。アナーキーたろうとする作者の表層的ゴダール節は真のアナーキズムどころか混沌を映画的に表現するにも至っていない。ラストの騒乱のドキュメントは限りなく虚しい。 | 投票(2) |