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[POV: a Point of View]
俺が見た山中貞雄の跡。
(その一部。よって継続)

明治42(1909)年11月8日京都市生まれ〜昭和13(1938)年9月17日午前7時死亡。その命の長さ28歳10ヶ月。彼が、もし、それ以上の長さを生きていたら、50年代はさらに輝いていただろう。
A★5人情紙風船(1937/日)良い意味であまりにも寂しい、遺作。
A★5戦國群盗傳(1937/日)七人の侍』の原点といっていいだろう。黒澤明がサード助監督をつとめていたらしい。
A★5丹下左膳餘話 百萬両の壷(1935/日)戦争の陳腐さを素晴らしいアイデアと話術で表現 [comment]
A★5河内山宗俊(1936/日)人の可能性と、その温かみを表現
A★4右門一番手柄 南蛮幽霊(1929/日)20歳で抜擢された山中貞雄の萌芽 [comment]
A★3その前夜(1939/日)山中貞雄の生涯を表現しようとしたが山中貞雄の力を表現することになってしまった。 [comment]
人情紙風船』が出来上がった昭和十二年第一次近衛文麿内閣成立、盧溝橋事件、南京占領と大虐殺。そして昭和十三年青島占領、国家総動員法公布、9月17日午前7時河南省の野戦病院で急性腸炎のため死亡。山中貞雄、享年29歳。 ◆ 昭和12年「人情紙風船」完成試写のあったその日に召集令状を受け取った山中貞雄は、たばこに火を点けようとしたが手が震えて無理だったそうだ。その時「『人情紙風船』が俺の最後の作品では浮かばれんなぁ」と周囲に言った。そして出兵し、戦地で従軍記に遺書を残した… ◆ ___『人情紙風船』が山中貞雄の遺作ではチトサビシイ。負け惜しみに非ず」___ ◆ 何度読んでもこの言葉、山中貞雄の映画に対する情熱が、映画をもう創れないことの悔しさが感じられて涙腺が緩む。生まれてからの時間が短すぎ、過ごした時代が悪すぎた顎が長い「沙堂(しゃど)やん」こと天才山中貞雄の28年10ヶ月の神懸かり的成長期が昭和十三年に止る。従軍記の最後にはこう記されてある。 ◆ ___最后に先輩友人諸氏に一言 よい映画をこさえて下さい。以上____ 昭和十三年四月十八日 山中貞雄 ◆ 死ぬ数ヶ月前に南京近くの句容で山中貞雄は小津安二郎と会い、戦争後に作ろうとしている映画の話をし、別れた。先輩友人諸氏は戦争が終わると50年代に数多くの名作を残した。その原動力となったのは、山中貞雄のこの言葉と、数えきれない才能が死ぬ間際に流した悔し涙があったからだといえるのではないか。 ◆京都市上京区の大雄寺には山中貞雄のお墓があり、小津安二郎による山中貞雄の遺徳を伝える追悼碑がある。 戦争は、命、才能を奪う。
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このPOVを気に入った人達 (2 人)TOMIMORI Santa Monica