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1976生/はじめ きめこめ/2020.04.05
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7あらすじ
2POV

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最近のコメント 10
★3リチャード・ジュエル(2019/米)あまりにも凡庸なその人物に、タイトル「リチャード・ジュエル」は事件の名であって人物の名ではない、かと思わせつつ、しかしやはり最後は人物の名として腑に落ちる。「母親と暮らす醜いデブ」にも五分の魂を見出しえるか否か。描き出される人物への距離が、寄らず離れず、たがそれが映画の品になる。それが演出家にとって欺瞞のない距離だからだろう。[投票(1)]
★3響-HIBIKI-(2018/日)書棚の本をめぐる問答無用のやりとりで、これは本来が「相対」であつかわれる世界に「絶対」をもちこんだらどうなるかと言う話なのだと合点する。故に映画の中のその「文芸」に内実はむしろ無い方がよい。そのかわり映画に内実をこめるのは具体的な被写体としての演者達でこそあらねばならず、映画は光と音のケレンで、それを中心と周縁、即ち絶対と相対の一対一の対決として描き出すに専心する。〔3.5〕[投票(1)]
★337セカンズ(2019/日=米)何度となくユマは寝床で目覚めて、自分の身を起こす。自分の身を起こすというアクションの為の目覚めなのか。女性達が体で表し、顔で伝える。車椅子は聖なる弱者の玉座ではなく、活ける実存の器となる。なけなしの具体性で現実と渡り合ってこその映画、そして物語。ならばこそ、遡行の旅程はより具体的な人生を賭した独力の冒険であるべきではなかったか。〔3.5〕[投票(1)]
★2わたしは光をにぎっている(2019/日)鼻唄。誰の声音なのか、判然とせず、風景の一部のように素気無く流れ去る。叙景的とでも言うのか。しかし活きた人間が不在の風景は、容易く尤もらしいイメージとして消費されるだけのことではないのか。輪郭の曖昧な人と物とを画面の中にそれらしく案配してみても、それだけでは誰も、何も、動き出さない。つまり映画にならない。[投票]
★3火口のふたり(2019/日)「ふたり」である。“ふたりだけ”の映画なのにそこに逼塞を覚えないのは、演者の明朗もあろうが、むしろ「行間を読ませる」よりは行そのものを直截に読ませるような奇妙なダイアログの即物性にあるのではないか。下世話なまで社会的、時代的に阿る台詞も“ふたりだけ”の間に浮き彫りになることで「イメージ」としての即物性を帯びる。「火口」の小噺の一躍の飛躍も共に「イメージ」としての通底性あらばこそ。〔3.5〕[投票(2)]
★3台風家族(2019/日)冒頭のガクブル手つきの描写からして何故か最早作為が丸見えでダメかと思えばやはりダメで全篇空回りの体をなすが、台風襲来のスローモーション以後押し切りの強さで俄かに血が巡りはじめ、辛うじて活劇的に飛躍が飛躍の体をなしえた終幕は、情景が情景として命を宿し得た(ように見えた)。甲田まひるの顔に惚れたのだろう。それは映画的にただしい衝動。[投票(1)]
★3さよならくちびる(2019/日)心理的に去来する挿話の暗黙な了解が、現在の三人の「共犯関係」を担保する。当たり前にありふれた風や光が、ありふれた日常としての三人の旅程を暗黙に祝福する。やりとりされる言葉は核心に触れるようで触れえず、然しかわりに繰り返し嘯くように唄われる「さよなら」が三人の心をむしろ三人のもとへと送り返す。なんとも言い難い、けれどたしかに息衝く人と人の間(ま)の妙。〔3.5〕[投票(3)]
★3キングダム(2019/日)漫画的な漫画原作映画を今更慨嘆しても仕方ないとしても、やはり漫画的は映画的ではない。長澤吉沢がキャラ立ちするのは相対的に心理的演技が抑制されているからで、説明台詞と表情演技の学園内ヤンキー派閥闘争的な相対の構図の中には、言いたいことを言わず言えず、しかしそれゆえに行動で自己を証明しようとする、せざるをえない大人がいない。「ユメ」の一言で相克が背負えるのなら、人間は人間を殺しはしない。[投票(2)]
★5勝手にしやがれ(1959/仏)たとえば「男の子」と「女の子」。問題は此の「と」であって、そこに息衝く断絶と接続の運動こそ映画の全てだと言うこと。圧倒的に輝く光の白や煙の揺蕩が世界の無償の豊かさそのものなら、その中で男女は断絶と接続のキワを生きる姿を喜劇と悲劇の狭間で演じる。視線と視線は映画の視線を介して互いに断絶し合い、また接続し合い、つまりは「愛」を演じる。瞬間ごとに生きている本来の映画、映画の本来。[投票(1)]
★3まく子(2018/日)不意に枯葉が舞い落ちてくる、由縁もなく。枯葉をまきあげる仕草、すらりと伸びる脚腰。☆☆☆は今日も秋風にまぎれこんで巷間を彷徨っているかも知れない。とまれ、ゼロ距離で肉迫してくる女子がじつは☆☆☆でもやはり女子なのは、男子の生理がそう感じさせるからに他ならず、そんな生理には生理で応えてもらえなければ、誰も大人(男女)になれないのじゃないか。[投票]

Plots

最近のあらすじ 5
★2幸福 Shiawase(2006/日)白夜の季節の北海道・勇払。その田舎町の無人駅に一人の男(石橋凌)が降り立った。男はさすらう風にその誰もいない田舎町の道を歩き、やがて小さな公園で倒れてしまう。かたや同じ田舎町の道を一人の女(桜井明美)が歩いていた。女は町角で見つけた募集告知に引き寄せられてある場末のバーの女給になる。そして女は、行きずりに男を拾う。行く当てのなさそうにしている男を、女は自分の部屋に呼びいれる。男にしがみつく女。そして一夜を共にした二人は、その日から奇妙な共同生活を始めることになる。〈106分〉[投票]
★3タルチュフ(1926/独)偽善を働く家政婦に騙されて、財産を家政婦に譲ってしまおうとしている老人がいた。老人には俳優をやっている孫がいたが、財産を狙う家政婦に偽りの不行跡を吹き込まれて、すっかり信用をなくしていたのだ。そこで孫は家政婦の偽善を暴くべく一計を案じる。それは映画の興行師に変装して祖父の家を訪ね、そこである映画を上映して見せるというものだった。そしてその映画こそは、偽善を働く似非聖職者タルチュフがその悪事を暴かれる映画、「タルチュフ」だった。モリエールの戯曲を、映画中映画という入れ子構造の手法で映画化したムルナウの作品。〈71分〉[投票]
★3路上(1996/日)重い外套を羽織って新宿の路上を独り彷徨する女の映画。神代辰巳のもとで助監督を勤めた経歴のある鴨田好史が、その遺作『インモラル 淫らな関係』の残フィルムで撮影した、言わば神代辰巳への鎮魂のフィルム。〈42分〉[投票]
★3アフリカへの想い(2002/独)かつての伝説的映画監督レニ・リーフェンシュタールが、長い沈黙を経て1973年に発表した写真集「NUBA ヌバ」は、一部にはファシスト的との評も受けながら、大きなセンセーショナルを呼び起こした。それから30年、かつて生活を共にし、友愛を育んだヌバ族の人々と再会するため、レニは再びアフリカの地へと旅立つ。今は内乱続くそのスーダンの地で、果たしてレニはヌバ族の人々と再会できるのか。当時100にも近い年齢を重ねて尚盛んな活動力と生命力を見せていた女傑の、その旅の過程を追跡したドキュメンタリー。〈60分〉[投票]
★2呪われた森(1980/米=英)音楽家の父親をもつアメリカ人の一家がイギリスへとやってくる。一家は新居として紹介された鬱蒼とした森の中に建つ大きな館にやってくるが、その家主であるエルウッド夫人(ベティ・デイヴィス)は気難しげな表情で一家を眺め、そして長女のジャン(リン・ホリー・ジョンソン)に目を留めて、一家を受け容れることを告げるのだった。やがて館に住み始めたジャンはじめ4人の一家だったが、住み始めたその日から、ジャンのまわりには奇妙な出来事が起こり始める。そしてやがてジャンは、そのことがエルウッド夫人の30年前に失踪した娘、カレンの存在と関係があるらしいことに気がついていくのだった。〈84分〉[投票]

Points of View

ジャンヌ・ダルクの映画[投票(1)]
ジャンヌ・ダルクを描いた映画。ランクは年代順。
宮沢賢治と日本の映画[投票]
A:宮沢賢治の生涯、B:宮沢賢治の原作。原作作品は、やはりアニメーションが多い。
ケルベロスもの[投票]
押井守の趣味世界。
アントワーヌ・ドワネルもの[投票]
フランソワ・トリュフォーの自伝的連作。
勝手にしやがれ!!シリーズ[投票(1)]
黒沢清の95年から96年にかけての連作。ハードボイルドより軽妙洒脱な“ハーフボイルド”・シネマなんだとか。この連作はその後の『CURE/キュア』以降の作品への助走とも言える。