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[コメント] ドッグヴィル(2003/デンマーク=スウェーデン=仏=ノルウェー=オランダ=フィンランド=独=伊=日=米)

その手法はさながら、寺山修司の市外劇「人力飛行船ソロモン」の1パート「1平方メートル1時間国家」のようである。このプリミティブな手法こそ、人の壁を取り除いた・・・人の純粋であるが故におぞましい姿を映し出すにふさわしい。
新町 華終

「壁」

人は壁によって囲まれた家または部屋と言う空間に自己を内在させる。 家こそがその人における内宇宙であり、自己を投影した空間であり、 秘密を封じ込めたカオスであり、世の中で唯一許される自己中心的空間であり、 そこに社会的ルールは介在すれども、内在はしない。 その家の集まりが村・・・ドックヴィルである。

「人の心の壁」

たとえ薄っぺらい板と言えども、人の心は隠れる。 あるいは隠れる場所を求めているのかもしれない。 至高への希求。堕落への欲求。 隠れた壁の中で人はプリミティブなまでに純粋となれる。 しかしそれは素晴らしいことなのか?

「劇場」

舞台の上に引かれた線。 設定が描かれ、それを役者が演じていくことで、 物語・・・空想上の現実が生まれ動き出す。 舞台の上では人を殺すことも、女を犯すことも、 すべてのインモラルに制限はない。 ただ唯一、物語には上映時間という時間制約が課せられる。 それが唯一、どんな悪夢であろうとこれは物語なのだという安心へと繋がる。 そして、それが終わった後、人は「よくできた物話だ」と絶賛する。

「それでも世界は回っていく」

やがて消される線。 消える時間。 消える舞台。

「それでも・・・」

人は苦渋に満ちた世界の中で、楽観し、悲劇を繰り返す。 いや、それは人が肉体という悲劇の中で生きるからかもしれない。 そして、肉体という壁によって囲まれた空間に精神は内在する。

(評価:★5)

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