[コメント] 交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい(2009/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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月光メンバーがみんながみんな同じ結論として 同じ目的を共有しているところに、 この子らはどんな思想統一教育の元に居たんだ? とか思ってしまう。
(こう書いてはいるが、いわゆる洗脳を指してはいない。 戦後民主主義が悪平等を招いたような皮肉を見ている)
■それはさておき。
このような限られた寿命による永遠(進まない時間)の希求 という構図は、3倍の成長の早さと戯画化されてはいるが、 二十年後、五十年後の自分を想像することのできない 進路を閉ざされたごく普通の若者にも、広く共通する感覚 であろう。
その際の、ませた思考。“世の中を知った気になれる” だけの知識。相対的に自らを大人だと自覚できるだけの 自惚れ…周りの連中はみんなガキだ。…等。
そのような存在を戯画化すると、あのような 月光メンバーの姿になるはずだ。
■しかし、
当人の自覚に関わらず、ひどく幼児的な思考をしている。自らを「本当は子どもだ」と言っても、その自覚のままに過ごした時間の中で、今回の事件を起こすまでの経過で、実年齢にして青年になっている。(外見の姿に相応した年齢にまではなっていなくとも)“大人と言っていいほどに年月を経過していた(ここ大事)”ことに無自覚な姿として、あの結論は描いているのだろう。
そしてそれは、今回の物語で死ぬこととなる二人のメンバーの用いた論理。疑念から結論への飛躍。根拠として持ち出される絵本の挿絵という短絡さ等々によって、どのような体格で描かれていても、子どもにしか見えない姿として表現されている(上手い)。
ちなみに、モラトリアムのまま大人としての責任を負わずにいる者として、それは、そこいらにも少なからず見受けられる。例えば指示待ち人間として、例えば「教わっていないからできない(しなくて良い)。」…といった言葉とし表れる。
■
彼らは、そこからの逃避として「父殺し」をし、その延長線上で、造反〜大量破壊(無差別殺人)へと向かった。この物語は、いわゆるオイディプス・コンプレックスとして片付けられる若者の辿る通過儀礼としての思考パターンを、何時までも課題に用い続けている教育界というか、この社会に対して、このような形でアンチテーゼを提示しているのだろう。
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