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[コメント] 息もできない(2008/韓国)

憎悪と暴力と贖罪、或いは不条理の物語。もし僕たちがそれを「愛」と呼びたいならば、きっと許されるだろう。だが、それがいささかも意味も意義も無いことを、この映画はまさに描ききっている。 2010年7月16日シアターキノ
ねこすけ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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。愛の入る余地のない所に理不尽に入り込む物語が、文体を語り、文体が映像を語り、そして「愛」を“示す”。僕らはそれを体の良い言葉で「愛」を呼ぶに過ぎない。だが、この映画の、一体どこに僕らが「愛」を呼ぶ愛が含まれているだろうか。  監督は次のように述べている。

「イ・ミョンセ監督からも『非常に切ない愛の物語を観た』と言われたんですが、自分としては二人の愛の物語を意図的に入れようと思ったわけではないんです。おそらくサンフンとヨニ自身もその気持ちに気付いていないかもしれません。むしろ観客の方が二人の気持ちをよく理解できるんでしょうね。もちろん互いに魅かれあっているとは思いますが・・・」

 監督はこの作品について「実は、ただつくりたいと思っただけで、事前に意図したことは何もないんです。その頃の私はあまりにもどかしすぎて、そのもやもやしたものをとにかく吐き出したかった。映画を撮り終えたあとで、ようやくそれが何だったのか整理して考えられるようになった気がしています」と語っている。まさにこのインタビューが示しているように、ここには意図を超えた意図が働いている。僕らはそれを読み解いて「愛」を語るかもしれない。だが、暴力の渦の中で働いている愛は、「愛」と呼ぶにはあまりにも激情的で、同時に閉塞感が満ちすぎている。例えばキム・ギドクの映画にもそういった面はあると思うけれど、僕らが彼やこの映画を語るときに語る「愛」ほど、レトリカルで「鑑賞者」としての目を出ないものはない。その意味では、この映画は極めて映画的で、僕らを完全に置いてきぼりにして「鑑賞者」の立場に留めさせてくれる。そこらの金をかけた「大作」からしたらあまりにも「インディーズ的」かもしれないけれど、一方で真摯な映画作家としての情熱を感じざるを得ない。そう言う映画は極めて希だと思う。

 キム・ギドクの名前を上述したが、この監督は一方でギドク的寓話からは良い意味で外れている点がある。基本的には昔のヤクザ映画的なプロットで、一方で舞台が限定されていて、漂うシニシズムと感情はギドク的な様相があると思うが、一方で観客を置いてきぼりにしながら、一方で映画的現実を突きつけてくると言う意味では、作家としてはミヒャエル・ハネケの『ファニー・ゲーム』や『セブンス・コンチネント』や『ピアニスト』的な感受性を覚えてしまう。巡り巡って循環していく暴力の連鎖は、もはや「連鎖」であるというよりも、不条理そのものが条理と化したカオスの様相を呈しており、そこにまさに僕らは一定の秩序を見いだすことが出来る。

監督は自ら社会的な問題(本作で言えば学生運動やベトナム戦争の後遺症)を入れることは意図しなかったと言っているし、(僕は韓国の現状を知らないけど)現在でもあれほど露骨な学生運動が行われているかはやや疑問が残る。だけど、それらの問題がまさにラストシーンで見事に結実しとり、そういった所にこの監督が意図を排除して「撮りたいものを撮った」結果として、見事なまとまりを見せている所に、言いようのない「完成度」を度外視した完成度を観ざるを得ない。そして、僕はまさにそこに「映画」を観る。

学生運動にしても、或いはそれを排除する右翼にしても、勿論ベトナム戦争にしてもそうなのだが、キーワードは感情と暴力なのだ。そして、暴力と激情の後に残る喪失感と――傷跡。

社会的なテーマの入れ方は、作品としての不備としてやはり問題は残っているが、それが一切問題にならない程にハマっている所がこの作品の魅力の一つだろう。

僕らは、暴力無くして生きれないけれど、その帰結として最低の罪を背負わないと、そしてそれを贖罪しないと生きていけない。暴力を否定したがる人間には、これは単なる「悲しみ」の物語として見えるかもしれない。 だが、そんな安直な物語ではないことは、ラストシーンの強烈なフラッシュバックが物語っていることを「道徳的」な人間は読み取れないだろう。

ヨニの父親(若干痴呆がかったベトナム帰りのお父さん)が、包丁を突然持って迫るシーン。扉を包丁で突きながら、うわごとを呟き、扉の向こうでヨニが泣き崩れて(恐らく窓から逃げ出して)ハンガンの脇でサンフンと泣くシーン。あるいは、父親の暴力に母親が殺されかけている所で、幼少期のサンフンが、隅で座って「放っておけ」というシーン。演出どうこう以前に、本当に、ああいう状況になると言葉を失う。そして涙がとめどなく流れて、だけど頼る人が居なくてしょうがなくて仕方が無くなる。あのシーンを観た時、失礼ながら(本当に失礼かもしれない。僕は監督の背負っている悲しみの何分の一くらいしか判らないけど)「この人は、判っている人だ。だけど、判っているから故に、孤独で悲しくて仕方がない人なんだろう」と思ってしまった。勿論、「勝手に」だけども。

シーンとしてはハンガンの箇所がやはり凄いけれど、一連のシーケンスとして観た時、僕はスクリーンを直視出来なかった。自分の身内が殴られ、或いは殴っている瞬間、子どもは“本当に”何も出来ない。

或いは、憎んでいる人が死に絶える時、僕らはその憎しみが故に、愛を喚起してしまうのだ。問題は、それが「愛」でさえ無いが故に、それを表現する文体が僕らの中に浮かばないということであって、それを描ききった監督に、僕はただ言葉を失うしかなかった。

見終わって少しして気付いたのだけど、あのラストシーンは唐突であり、また一方で伏線が既にあって「殺される」ことが予期は出来たのだけど(この辺りのベタさは、良くも悪くもベタ過ぎる感は否めない)、だけど冷静になってみると、あれはこの映画においては極めて必然的な流れだったことに気付く。

それは既に冒頭で示されていて、殴られている女を救って女を殴り、その後サンフンが後ろから殴られるシーンや、或いは殴っている者はいつか殴られる日が来ることを知らないといけない、と言う旨の台詞や、或いは新入りを恫喝しているサンフンの言葉の端々に既に示されている。

この辺りは極めてヤクザ映画的要素が強いのだが、一度暴力を振るった時、僕らはその暴力に何らかの呵責を覚えたり、或いは何かを守ろうとした時――この映画で言えば「笑顔」を覚えた時――僕らは、手痛いしっぺ返しを貰う覚悟をしなければならない。

「暴力」の映画として、或いは「愛憎」の映画として、この映画ほどに優れた作品は、滅多に表れないだろう。だけど――だけど、この映画の持つ「憎しみ」と「暴力」を、一体誰が裁けるだろう。一体誰が赦せるだろう。

この映画は罪と贖罪を絶望的な塩梅で背負っている。

(評価:★4)

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