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[コメント] 星を追う子ども(2011/日)

二つしかない新海の作家性を封印した結果、つぎはぎにしか見えないものができてしまった。
甘崎庵

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 念のために言っておく。以降は本作にいちゃもんを付けたものではない。たとえそう見えても、それはこの人の作品を愛するが故と思って欲しい。

 本作は一応評価すべきところは確かに存在する。褒める部分を言うならば、本作はアニメーションらしいファンタジックな作品であり、絵も綺麗だし、物語もそれなりにまとまってる。これがジブリのパクリだとか、『天空の城ラピュタ』(1986)の劣化版だとか、そんなことは脇に置いてしまえば、質そのものが低いわけでは決してない。

 ただ、本作の最大問題点は、本作が新海作品だという点にあった。簡単に言うならば、これは観る側の期待を完全に裏切ってしまったのだ。

 それでは整理するため、まずは新海誠という人の作家性と言うものを考えてみよう。

 一つには描写面。場面を作るのが少人数で、PCを使っているということもあるが、納得いくまで作り込まれた場面描写は、とにかく美麗。そしてその大部分が昭和後期によく見られた日常描写を徹底して作り込んでくれること。そこに例えば違和感たっぷりな未来的な建築物がぽつんと立っていたりすると、いかにも「新海だ」という描写になる。後は空の描写も特徴的で場面場面で意味なくパンナップするカメラが映し出す銀河系とか夕陽や電線なども、この人の特徴だ。

 もう一つが際だった男女描写。比較的年齢の高い男女がぶつぶつと難解な台詞を呟きつつ、惚れたはれた(特にフラれた)ことをアニメーションできっちり描けるという点にあった。普通この内容はアニメ向きじゃないし、面白くもなさそうなのだが、そんなうじうじした男女をエンターテインメントに仕上げてしまう実力こそが新海誠という作家の最大の武器で、一種の怨念に満ちたこの描写あってこその新海監督作品であり、それこそが作家性というものだった。

 それに対し本作はどうだろうか?主人公のアスナはポジティブシンキングが服を着ているような女の子であり、彼女と関わるアガルタの少年シンも悩むよりは行動するタイプで、そのどちらも一般的な冒険アニメの典型的な人物だった。一応新海的キャラとして先生が登場するが、それだって『ラピュタ』のムスカのなり損ないみたいな存在で、今ひとつ。これが著者の欲望の具現化とするなら、もっと行き着くところまで行ってしまった描写にしなければ、画面的には映えない。下手にいい人にしようとするから、ものすごく中途半端だ(こんなところにも自分を装おうとするあたりは新海監督らしいと言えなくもないが)。

 描写に関しても、相変わらず無意味なパンは嫌味なレベルで行っているものの、星も電線も夕陽も見えないものばかりでは、「これのどこが新海?」と思わせるものばかり。

 いったいどうしたんだろう?本来自分が持っていて、そしてそれ“しか”期待されてなかった最大の強みを投げ打って、何をしたかったのだろうか?「俺だって普通の作品を作れるんだ!」と言う主張だろうか?それともこれまでの自分の悪行を反省し、一皮むけた自分を見せようとしたのだろうか?元々引き出しが一つしか監督なんだから、他の引き出しを出そうとしたら、他の作家の引き出しに頼るしか無く、失敗するのは目に見えていただろうに。

 次回作は自分自身の武器をちゃんと使ったものにして欲しいものだとは思う。

(評価:★2)

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