[コメント] かぐや姫の物語(2013/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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日本においては誰も知らない人はいない民話「竹取物語」。日本人のアイデンティティの一部とさえなっているとも言えるこの物語を高畑監督が五年以上の時間をかけての渾身の映画化。
この作品を観た人の反応は真っ二つに分かれるんじゃないかと思われる。
一つは「もっと大胆に作ってほしかった」というのと、「ここまで大胆に作ったのか」という、多分全く正反対の評価が与えられるかと思う。
そのどちらも間違ってない。
実際この作品、「竹取物語」のフォーマットを一切崩してない。誰もが知る「竹取物語」をそのまま丁寧に映像化したような構造でもある。オリジナル要素としては、捨丸という青年を配して折に触れてかぐや姫の人生に現れるということくらい。この部分に不満を持つ人もいるんじゃないかと思う。もっとオリジナル要素を増やして、それこそ“今まで観たこともない”「竹取物語」を見せてほしかったというもの。予告ではまるで全く新しい物語が作られるように煽られていたのだから、そんな不満が出るのも分かる。
だが一方、それとは全く真逆に、「ここまで大胆解釈するか」という驚嘆の声も上がるんじゃないかとも思える。
この両極端な評価が出るのは、物語そのものに焦点を据えるのか、それとも一人の女性の生き方というものに焦点を据えるのかによって変化するのだろう。
つまり、物語だけを見る限りは、完全にフォーマットに則った作品だが、かぐや姫という一人の女性を見るならば、本作は際だった特徴を持つ物語になるのだ。
高畑監督は、本作を語る上で、かぐや姫を現代の女性像として捉えると語っていた。では現代の女性像とはなんだろうか?
簡単に言えば、それは「自立できる」という事になるだろうか。自分で判断し、判断したことを実践できる女性となる。
一方において日本(と言う言い方は悪いか。どんな場所であっても)は長らく封建社会にあって、女性は親の言うとおりに生き、親の考える結婚こそが全ての幸せと強いられることになる。
そんな社会の中に放り込まれた、自立心の強い女性はどのような反応をするだろうか。
本作におけるかぐや姫は、子どもの頃より自分の好きなことを楽しむタイプだが、それ以上に自分を育ててくれた翁と媼の期待にも応えなければならないという思いもあり、しかもどんなことをやっても人並み以上にうまくいく上、器量よし。完璧な女性であった。どうしてもそこに引きずられてしまう。
だから時に暴走してしまうこともあって、何度か反抗もするのだが、結果として個性を閉じ込めて翁と媼の期待通りに生きてしまう。
この部分、高畑監督がこれまでアニメーションで描き続けてきた人間というものを端的に表している。
人間は個性的な生きものであるが、同時に社会的な生きものでもある。個性を生かして生きていきたいと思う一方で、社会的な制約を受けつつ(それは制度であったり、人間関係であったり)、その中で、「自由になりたい」と願う。
大体70年代のATG流行りの日本映画界においてはこれは物語のメインテーマであり、当時の映画には、どんな作品にもこの“制度と自由”のアンビバレンツが描かれていたものだ。だんだんそれは時代の流れと共に後退していったが、高畑監督はその視点を持ち続け、それをアニメーションという形で世に問い続けてきた。そこが非常にユニークな部分だ。
例えば『平成狸合戦』では、狸の生態と自然破壊をメインテーマとしつつ、自由に生きている生きものが制度によって潰されていく様子を、『おもひでぽろぽろ』では、周囲の期待に合わせて生きていくことの心詰まりを、『となりの山田くん』では、家族という制度を。結局監督はその視点を常に作品に投影し続けていたわけだ。
そして本作においてかぐや姫は、自分を捨てることで周囲に合わせる生き方を選択し、それは上手く行っていた。だが、それは最終的に別離という形で全てが御破算とされてしまう。
月の住民であるかぐや姫は、地上を夢見たという罪を負ってこの世界へとやってきた存在だった(劇中ではそれが“罪”とされているのだが、実際はかぐや姫が望んだ通りになってるので、その部分はちょっと疑問でもあるのだが)。それは限られた時間の中で、どのように彼女が生きるか?という試練が与えられたのだが、翁はそれを制度の中で生きる事が最も彼女にとって幸せだと思っていたし、月から与えられた指令もそれであると思いこんだ。だが、それは彼女にとっては、ほんの僅かな時間を自由に生きるために与えられた時間だった。それが出来ないまま月へと帰らされるということは、彼女にとっては悲劇に他ならない。
最終的に彼女は地上の全ての記憶を奪われ、月の住民として帰還することになるが、これはそのまま一人の女性の死を描くこととなる。与えられた時間を有効に使うことなく、後悔のまま死を迎える。これ又大きな悲劇である。
これをテーマとして、監督は、社会の中で、いかに自分が自分として生きるのか?と言う問いを投げかけているかのよう。黒澤明監督がかつて作り上げた『生きる』(1952)で歌われていた「ゴンドラの唄」のワンフレーズ「命短し恋せよ乙女」の通り。この作品自体が問題提起となっているようだ。
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