[コメント] 狂った果実(1956/日)
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原作者石原慎太郎氏による「太陽の季節」に続いて製作された、いわゆる“太陽族”と呼ばれる若者を主題とした作品。今回は石原慎太郎自身が脚本を務め、よりリアルな石原ワールドが展開している。
日本よりも海外で評価が高い邦画の傑作の一本で、かつて本作を観たトリュフォー監督はこの作品とヌーヴェルヴァーグとの近似性を指摘したそうだが、確かにその通り。
決して単純ではない人間の本質を裏切りや怒りを通して描き、テクニックで魅せるカメラ・ワーク。乾いた描写。それらが見事に調和していた。私が思うに、この作品こそがヌーヴェルヴァーグの本質そのものだろうと思える。
実際フランスでヌーヴェルヴァーグが始まったのは1960年代に入ってからであり、その五年も前にこんなものが、しかも日本で作られていたという事実は、もっと評価されてしかるべきだったし、この資産を生かすことが出来なかったのが邦画の大いなる損失だったとさえ思える。ヌーヴェル・ヴァーグとはフランスで起こったのではない。最初に日本で起こっていたのだった。ただ、それに定義を与えたのがフランスであり、更に本作に続くものを出せなかった日本映画界の弱さのため、本作はたった一作の邦画のあだ花となってしまったのが残念でならない。
それだけ強烈な印象を与える作品だ。
本作は乾ききった人間関係が前面に出ているのだが、画面の一つ一つに陰湿さがまるで感じられない。白黒映画であっても、これらが強烈な日差しの中、あるいはスポットライトの中で、つまり明るい場所が舞台だと言うことが分かる。陰影を重要視するそれまでの日本映画とはまるで異質な、日本でありながらまるで日本でないような異質さを醸していた。
異質さと言えば、ここに登場する面々も皆異質だ。彼らはいわゆる上流階級の子弟であり、戦後僅か10年ちょっとで成功を収めた人間達の生活とは、ここまで豊かになり、その一部のこども達は何の苦労もなく別荘やボート、高価な洋酒を消費できる立場にあること。彼らは与えられたものを自然に使っているだけで悪びれるところがない。そんな人間が主人公となっている。
今から見てもそうだが、当時の庶民にとっては手の届かないあこがれの的のような生活が底には描かれていた。いや、正確に言えば、平等社会になったので、手を届かせることは努力次第では出来るのだ。しかし凡人には届かせることが出来ない位置にある。 そのもどかしさを上手く演出できたことが本作の最大特徴。
そんな生活の中にもやはり人間性は浮き出ていく。物理的にいくら裕福になって、欲しいものがなんでも手に入る生活をしていても、実際に手に入れられないものもあるのだ。それが人間の感情と言う奴で、こればかりはどんな人間もコントロールできない。 兄である夏久は遊び好きなだけに、感情のコントロールも出来ると思いこんでいたのであり、むしろ弟のためと思って恵梨に近づいたのだが、本気になったのは彼の方だった。これで彼自身が悩み苦しむことになる。
下から見たものではない。あくまで平等な人間対人間の感情のぶつかり合いがそこに生じる。実際、このような描写こそヌーヴェルヴァーグの骨子と言っても良い。 ここに出てくる三人の三角関係は、結局和解できない。互いが互いを思いやってるつもりで、自分の思いを誰にも言わないままだから。
結果的に、それはこのような結末を呼んでしまった。それを乾いたタッチで見事に映像化してくれていたことに驚かされたものだ。
この時代の社会派映画と娯楽映画の両極端な流行りの中、ここまで純粋なる人間性を見つめた作品を作れたと言うこと自体が奇跡のように思える。 これをもうちょっと展開できてれば、邦画の未来も変わっていたかも。
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