[コメント] ジュラシック・パーク(1993/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
ベストセラー作家であり、映画のヒットメーカーでもあるマイケル=クライトン原作の同名小説の映画化作品。
当時原作の方は読んでおらず、話題性だけで観に行った作品だったが、自分の中では大当たりだった。
事前情報としてはスチール写真とほんの僅かの紹介だけであったが、観に行って驚いた。ここまでコンピュータの技術って進んでいたんだ。あの恐竜の描写には正直衝撃を受けた。
これまでも恐竜を題材とした映画はいくつも作られてきた(『ロスト・ワールド』(1925)という映画最初期の作品もあるし、『キング・コング』(1933)だって恐竜は出てくる)。
現代に存在しない、いわば命を持たぬ造形物ををいかにして自然に動かすか(命を与えるかと言い直しても良い)、これは映画の歴史そのものと言っても良い。
例えば『キング・コング』に見られるように、着ぐるみで再現するものがある。ハリウッドではさほどメジャーとは言えないけど、日本の特撮界ではこれが一番相性が良かった。これだと人間が中に入っているので、非常にスムーズに動かせるのだが、人間の体型に着ぐるみを合わせねばならないため、形と動きは制限される。
着ぐるみと同時によく用いられるのがマリオネット様式。ピアノ線などの吊りを用いることで人間の体型でないものも動かせるようになる。日本ではキングギドラなど、着ぐるみと併用される場合もある。
あまりメジャーではないが、マペット方式というのもある。ミニチュアの中に手を入れて、動かす方法で、熟練すると人形の表情まで見事に作ることだって出来るが、操作が大変難しいらしく、これで成功した作品は『ダーククリスタル』(1982)』くらいしか私は知らない。
対してハリウッドで一番メジャーとなったのがコマ撮りのアニメーション。一コマ一コマ恐竜のミニチュアを動かしてみせる方式で、映画黎明期にオブライエンにより既に確立され、それをダイナメーションという形で成功させたのがハリーハウゼン。以降コマ撮りアニメーションと実写の合成がハリウッドの中心となっていく。この中で数々の傑作も生まれ、数々の迷作も登場したが、手作りで、楽しんで作ってるとしか思えないようなこだわりがとても嬉しかった(特撮好きな人間は大抵その手作りさに惹かれるらしい)。
ただ、映画も進歩していく。コンピュータの導入に従い、CGが徐々に映画の中に入り込むようになってきた。これまでも『トロン』(1982)を初めとしてCG中心の作品が作られたこともあるが、CGは現実の風景を補完するものとして(あるいはセットの一部として)用いられる位が関の山。映画は基本的にアナログで作られていた。
だが、それまでのアナログを中心に、それを補完する形でディジタルがあるのではなく、ディジタルを中心とし、逆にそれを補完する形でアナログが用いられる、その転換点が本作となった。確かにこの作品を改めて観ると、CGの使い方がまだ練れてない部分があったり、恐竜の重量感が足りないとかもあったが(この表現がとても難しい)、劇場で観た時はオープニングの衝撃がそれらを全て吹き飛ばしてしまった。
正直、ここまでなめらかに動く恐竜が目の前に出されたとあっては、映画そのものが変わっていくことを認めざるを得なかった。
…その結果、確かに映画は変わった。これまでスタントがやっていた演技もCGを用いることによって、今まで以上に派手なシーンが作られるようになったし、現実にはあり得ないような絵を見せることも可能となった。怪獣においては言うに及ばず…それは進歩と言えば進歩だ。更に恐らくこれは不可逆的なことで、これからどんどん進歩していくのだろう。ただ、ちょっとだけ呟かせていただくと、そこが寂しい所でもあるが…
…くだらん蘊蓄ばかり長々と書いてしまったが、そろそろ本題に移ることにしよう。
そう言うことで、本作は“あり得ないものの描写”にCGを前面に持ってきて大成功を収めた初めての作品。常にトップで走り続けたスピルバーグの面目躍如だろう。
これまで『激突』(1972)、『ジョーズ』(1975)、『未知との遭遇』(1980)、『E.T.』(1982)と、70年代から80年代を通して常にトップランナーであったスピルバーグだったが、彼のチャレンジ精神は未だに健在で、しかもちゃんとそれを一般に受け入れられるように作ることが出来るのは、やはりこの人がただ者じゃない証だろう。まだまだアラの多いCGも、こういう使い方をすれば、目立たずに素直に観ることが出来るんだから、監督はその辺もしっかり考えてやったに違いない。90年代もやっぱりトップを走っていくんだろうと思わせられたものだ。
しかし、果たしてこれらが全てスピルバーグ監督のコントロールの元にあったのか?そう考えてみると、ちょっと違っているようにも思える。
映画というのは色々な過程を経て作られるものであり、画面の効果を見せつけるだけの作品というのも確かに方向性としてはあるのだが、良質の映画というのは、一番大切なのは物語であることから外れることはない。画面の派手な演出も、キャラクターも、ストーリーによってしっかり管理されてこそ映えるのであり、そのストーリーにあった演出があってこそ意味がある。少なくとも色々言われてはいても、スピルバーグ監督はその事を本当によく分かった監督だと思ってる。
しかるに、本作で物語というものを考えてみると…
あれれ?思い出せるのが少ない。派手さに押されてしまったようだ。恐竜の登場シーンなんかはヒッチコックを意識したような良い演出ではあったのだが、恐竜という存在感そのものに押されてしまった感じ。
その後、クライトンの原作を読んでみて、私なりに感じたことは、これは一方的に人間がモンスターによって追われる作品ではなく、むしろファースト・コンタクトを題材にした作品に近いと思えること(偉大なる先達である『キング・コング』や『フランケンシュタイン』(1931)と方向性は一致してる)。絶滅していた恐竜にとって、人間とは自分たちを生き返らせてくれた恩人ではなく、むしろ安らかな眠りについていた自分たちを、モンスターとして甦らせてしまった、苦痛を与える存在に過ぎない。
その中で人間がどう謙虚に、恐竜との共存の道を模索するか。ここに一つの中心が無ければならなかったのではないか?そして、甦らせてしまい、暴走した恐竜に対し、人間の責任というものを突きつけねばならなかったはずなのである。
その部分は確かに登場人物の言葉の端々から窺うことも出来るのだが、全て細切れであり、動く恐竜のインパクトに押しつぶされてしまっていた。
画面を存分に見せつつ、そう言う細かな配慮がもう少し欲しかったな。だったら紛れもない傑作になったものを。
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