[コメント] 野のユリ(1963/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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人の良いアフリカ系アメリカ人青年とどこか世間一般からはずれた性格のきつい修道女達が巻き起こす日常を暖かい目で描き、最後はホロリとさせるという、人情喜劇の見本みたいな作品で、内容的に『天使にラブ・ソングを…』(1992)のオリジナル版のようにも思える…だからこそ「見本」なんだが。
この時代で敢えてモノクロで作ったのは、単に予算の関係らしいけど、白黒だからこそ、余計な部分を全て排除し、純粋にストーリーとして楽しめた作品で、ストレートで単純ながら、とても心地良い作品に仕上がっていた。物語中盤にちょっと冗長な所も確かにあったけど、それでもやっぱりキャラクターの良さと、会話のテンポの良さ。そして反発しながらも相手を気遣う心遣いなど。何というか、じーんと来るものが詰まってる感じ。
この作品で初めてアフリカ系アメリカ人にオスカーをもたらしたポワチエは文句なしの名演。当時のアフリカ系であれば、色々な差別も受けていたんだろうけど、卑屈さを全く感じさせず、伸びやかに演技していた。実際劇中のホーマーの役所を考えてみると、ああ言う境地に至るまでどれだけ苦労したんだろうか?とも感じてしまう。
だからこれは単なる人情話ではなく、人種差別や性的なものを全く感じさせない、一種のファンタジーあるいは理想として作品が成り立っている。
ファンタジーを自然なものとして観客に観てもらうこと。これが最高級の映画の条件だ。そして本作はストレートにそれを観客に信じ込ませていると言うことで、巧い作りとなった作品だろう。一種、本当にある“かもしれない”話と観客に思わせることが出来た時点で成功だ。
流れ者がふらりと修道院にやってきて、教会作りを始める。それを見ていた人たちも協力していき、やがてみんなで教会を造っていく。その過程の一つ一つが丁寧だったし、心温まる物語に、ホーマーとマリアの口げんかがスパイスとして入っていたため、それが良い感じに仕上がっていた。
それでも表面から見られる彼らの和気藹々、あるいは丁々発止のやりとりも、実際にはお互いに色々な黒いものがあるのかも知れない。と思ってみたりもする。この二人の立場はかなり微妙。ホーマーはアフリカ系で、本来虐げられる立場にあったのに、それを嫌い、放浪の旅をしている。自由に生きることを何より欲していた人間だった。それが悪く言えば、自分から進んで使役される立場に身を置く事となる。これを自分で良しとする理由としては、結局自分が物ではなく、一人の人間として頼られていると言うことの誇りであり、あまりに頼りない修道女達に対する保護者としての役割を自らに強いた事によるものと思える。自分を保護者であるとした以上、彼女たちに優しく振る舞うことしかできないのだが、それを図に乗ってこられると、怒りが湧きあふれてくるはず。一方のマリアにしても、神からの贈り物としてホーマーを見ているのだから、当然自分の思い通りに動いてくれるはず。と言う思いになるはず。当然物語り上、その衝突は描かれて然りかと思ったのだが、画面では比較的それを回避していた。更に、ホーマーの行いを見ていた町の人たちが、自主的に教会作りの手伝いを買って出るのも、結局みんな良いことをしたいんだ。と言う程度の認識で終わってしまっていた。もうちょっと意地の悪い人間もいるはずなのに。
…だからこそ、この作品はファンタジーとして受け入れるべきもんなんだろう。
それに最後のホーマーの去り方が無茶苦茶格好良いんだよな。こういう生き方してみてえ。と瞬間、痛切に思ってみたりもしたし。
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