[コメント] プリック・アップ(1987/英)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
スティーブン・フリアースは好きな監督の一人。といっても特別に好きな映画があるわけじゃないし、彼のスタイルが好きなわけでもない。多分FREARSという名前の響きが好きなんだろうな。かなりいい加減な理由だけど、そんな理由で好きになることってあるよね。>って誰に訊いてるんだ? そんな理由で嫌いになるのは愚の骨頂だと思うけど、好きになるのは構わないと思う。そんな彼の作品の中でも『プリック・アップ』は好きな映画だ。
アルフレッド・モリーナが演じるのは容貌的にぱっとせず、若禿の傾向痛々しい太り気味の青年。ゲイであることを時代風潮を考慮しつつもそこはかと匂わし、容姿には皆目自信がなく、自身の非社交的で狷介な上に退屈な性格をもきっちり自覚しており、それに引け目と劣等感を感じ続けてることによって性格を一層偏屈なものにしている。ただし、不幸な家庭環境(具体的には忘れてしまったのが)などの生い立ちとゲイという性的傾向が同時に優れた芸術家の誕生に適した土壌でもあることを知っており、その脆弱な根拠に危うい希望と捩れた自恃の念を拠っている。彼は文学的にはいわゆる早稲であるのだが、元々才能があった訳ではない。学生時代は自分の限界に気づくより、将来の希望と未来の成功の中に生きていた。その彼が演劇学院で出会うのがゲイリー・オールドマン演じる夢見がちの青年。彼は以前から俳優として成功するのを夢見ていたが、その手段が分からなかったところ、ふとした切っ掛けで王立演劇学院への入学切符を手にする。両親はこれ夢に対して否定的で彼が現実的な職業に就くのを望んでいるものの親子の間の距離感の隔たりは著しく、オールドマン青年(実は登場人物の名前を失念)は両親にたいして他人に近い感情を抱いている。ありきたりな教育に飽き足らずに薄っぺらなペダントリーで包み込んだ奇矯な行動をとるモリーナ青年にオールドマン青年は興味を持ちそして同性愛的傾向を開発され二人は愛し合うようになる。モリーナは文学に関しては無知だったオールドマンに初歩的な文学的手ほどきをし、二人は同棲する、劇作家としての成功を夢見つつ。
ここからが興味深い。モリーナは生い立ちから来たものもあるだろうが、元来自分の容姿に対して自信を持てず、その自信のなさを教養主義的なペダントリーで糊塗しているのだが、そういった稚拙な技巧による妥協策はオールドマンの不敵ともいえる奔放な生き方を前にして危機に晒される。オールドマンも彼の自信のないおどおどとした態度の原因を察知しており、最初は愛情から次には同情から最後は憐憫から彼の力になろうとする。が、オールドマンのある繊細さを欠くとも思えるような押しの強い自信に満ちた生き方や留まるところのない艶福に対して嫉妬を覚えていたモリーナがオールドマンに対して最後の砦として依拠してきた文学的優越感という張りぼてが徹底的に破壊される出来事が起きる。オールドマンの戯曲がラジオで採用され、プロの劇作家としての階段を登り始めたのだ。
モリーナが実存的な嫉妬、劣等感に苛まれるさまは若禿を隠そうとするシーンよりもはるかに痛々しい。愛情も枯れ、惰性や同情や憐憫という負の感情だけで結ばれた二人の仲はオールドマンの社会的成功とともに乖離する一方だが、二人は最後の賭けとして修復のためにモロッコへと旅立つ。しかしそれにも失敗した後、モリーナが「作家となるには最高の環境だったはずなのに」と自分の性的傾向や家庭環境に照らして過去を回顧し、現在に焦燥し、未来に絶望するシーンは悲痛だ。ドストエフスキーの「白痴」のガーニャ評である「(自意識の強い)人間にとって絶望とは己の無能を悟ることである」という文を思い出してしまった。目の前で成功の階段を急激に登っていくオールドマンに対する嫉妬、劣等感、被害妄想、怒り、焦りが煮詰まってどろどろした絶望のあぶくが煮立った時、惨劇が起きる。
自分が望んだものになれるのはごくごく少数のものだけ。ほとんどの人は自分の夢をモラトリアムの期間に処分する。完全に捨て去ってしまったり、「今の職業は夢をかなえるための腰掛け」なんだと根拠のない妥協で自分をごまかしたり、同種のしかし実際には似ても似つかないことを自分でも承知している職業に就くことで自分を宥和したり、夢を個人的な趣味の領域へと閉じ込めてひたすら深く穴を掘りつづたリ、と。「自分には才能がないのかもしれない」という疑義が確信になり、温かい家庭という幻想の中で通俗的なホームドラマの間抜けなパパを演じる。モリーナはその時機を逸した。あるいは妥協するのを潔しとしなかった。この映画が胸を打つのは彼が希望に燃えているように思えるときでも常に絶望の泥沼に漬かっていたことだろう。彼は恐らく自分には文学的な才能が欠如していることが漠然と察していただろうし、内心では認めたくなくてもどこか心の奥底で認めていたに違いない。天才なら自分に対して発しないはずの「俺には才能があるのだろうか?」と自問を絶えず周囲を文学的に貶めることによってごまかし続けたのだろう。容貌に対する自信のなさを糊塗するペダントリーは世間に対して優位に立つ屈折した処世術であると同時に自分に対する絶望的な強弁にすぎない、と。あのおどおどした態度と門下生であると思っていたオールドマン対する強がった態度の落差。が、モラトリアムの期間をずるずると延ばして自分を逃げ場のない最後まで追い詰めてしまった。それは凡庸な人間が凡庸であることを拒んだために起きた悲劇。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (0 人) | 投票はまだありません |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。