[コメント] 死んでしまったら私のことなんか誰も話さない(1995/スペイン)
映画を見終った人むけのレビューです。
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夫の事故(植物状態を「死」と扱うかは疑問がありますが)からこれまでと違う生活を手に入れようと家を飛び出したヒロインは、ある捜査官の死からマフィアの金を奪う事でそれを成し遂げようと計画する。だが、最終的には、義母と夫の死が彼女にそれと全く異なった新しい生活を与える事になる。突然の事故で夫との生活を失ったヒロインは何とか幸せを手にしようと焦り、奮闘するが、近道を目指していたようで実は回り道をしていた事を悟り、人生を歩みだす訳だ。
しかし、恐らくこの映画で最も印象深いのは、内戦とその後の独裁政権の傷(尤もハッキリと指すような形では語られていないが)、圧政への抵抗者であった義母たち(共産党員(現役?)の食事会)と、軍側の暗殺要員だったらしき神父、それぞれの老人の姿である。癒える事のない加えられた暴力(抵抗と仲間の死)と、終える事のない自ら犯した暴力への贖罪、いずれも回想シーンなど一切挟まず、セリフのみで―それも僅かに―語られるが、重く残された血と死の臭いが感じられる。同時に、ここに描かれているのは過去や背景だけでなく、そうしたかつての暴力に縛られながらも、なおそれと向き合って生きる老人たちの今の姿でもある。具体性が打ち消され気味な本編の象徴的な「死」の扱いに比べて、彼ら老人たちの生きる姿がどれだけ切なく、しかし、力強い事か。
それだけに、ラストには頷き難い。義母たちが自死(ある種の無理心中だけれど)しなければ、ヒロインは新しい人生へと踏み出せなかったのだろうか?果たして得るべき未来とは過去からの束縛を切り捨てた所にあるものなのだろうか?何かを得るために払う代償というのと束縛がなくなった結果何かを得るというのは似て非なるものである。義母たちの死は「結果」としてヒロインに新しい生活を与えるかもしれないが、それはヒロインが払った代償ではない。願わくば、ヒロインの紆余曲折や殺し屋の苦悩(彼もまた娘の未来の代償として殺される)が過去と向き合って逞しく「生きる」老人たちの姿と重ねられるべきであったと信じたい。
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