[コメント] ウェルカム・ドールハウス(1995/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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『ゴーストワールド』のようにいじめるやつらがアホなんだと、ある程度ひねた視点で世界を見ることもせず、主人公はいじめっ子には同じ方法で反抗する。反抗は依存とイコールだ。ひたすら皆に受け入れられようと、愛が欲しいとがんばるように見えた。或いはひねた視点でみようとしても、スペシャル人間のクラブを作ろうとか、どうも方法的に不器用に見えていまいちうまくいかない。 また、『リリイ・シュシュのすべて』のようにキレイに残酷を描こうともせず、とてもそのまま残酷を淡々と見せているので、なんというか、「世界から受け入れられないいじめられる可愛そうな自分」という耽美な世界に入り込むことができない。その世界に入り込もうとすると、たちまち現実が立ち向かう。その世界に入り込むブスという客観的視点がそれを許さないのだ。
結局世界をバカにすることも、自分の世界に入り込むこともできない。世界からいじめられててもどこにもいくところがないから結局世界にしがみつくしかない。しかししがみつく彼女をまた容赦しない。
ラストも「ゴーストワールド」と同じようにバスに乗っていくけど、この映画のバスは学校の遠足のバス。これが全てを象徴しているようにも思える。
結局この映画はなんだろうか。もっと自由にしていいと思うのだけど。例えば世界をもっと嫌うことも、無関心になるのも、ほっぽりだすことも、想像力膨らませるのも、いくらブスだろうが自由だと思うし、むしろ、暗いから、抑圧されてるからこそ明るさが映えたり、希望が膨らんだり、てことにもなるように思うんだけど。
自由だから自由ではなくて、不自由だったからこそ自由を味わえるわけで、自由と不自由の落差が、自由を感じさせる、ということを誰かが言ってたのを思い出しました。だから不自由の只中にいる彼女は不自由だからこそ、今はない自由へと意識飛ばすことができると思うし、実体のない自由を思うことで、今をしのげたりしないだろうか。『ゴーストワールド』は、高校卒業してしばらくは、その不自由と自由の落差で自由を謳歌していったのが、だんだんとその落差がなくなっていくにつれて、しんどくなってきた、ていうのもあると思う。
それとも、女の子にとってブス(とは思わないけど)というのは、実体のない自由へと意識飛ばすことができないほど圧倒的なものなんだろうか。
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