[コメント] ダンサー・イン・ザ・ダーク(2000/英=独=米=オランダ=デンマーク)
自分のピュアさをここぞとばかりアピールしようとアンギャーと泣き喚く女供に混じってビービー泣いた後、入った喫茶店でパンフ見て、思わずニヤリとしてしまった。 トリアー自身のコメントである。
「映画を見終わって、誰かに話す時、または文章をお書きになる時、結末に触れることを、控えて頂きたいと思います」
それもその筈である。総ては、あの冒頭3分30秒の闇で終わっていたのだから。
これは勿論、「見る」事を失う映画である。そして、「歌う」事を失う映画である。 主人公セルマは、しかし、最初から「見る」事を諦めている。それは何も「見る価値のあるものなんかある?」なんていうセルマの解り易い補足説明を聞かずとも、あの冒頭の闇がちゃんと証明している。嘘だと思うなら、実際観てあの終末を確かめるが良い。誰もが、真の終末は、あの闇にあったのだという事に気付き、震撼するであろう。 その時、もう既に遅いのだ。われわれが追って来たセルマのあからさまな悲劇も、それにもらい泣きしたわれわれの偽善も、総て、あの闇に消えてしまうのだ。総てが、闇なのだ。嘘なのだ。
いや、ここで皮肉るのも野暮だ。寧ろ、その事実に気付かず映画館出てもまだハンカチで眼を押さえて「よかったー!」と叫ぶ少女達のイノセンスに、愛おしさを感じようではないか。誰も気付く必要はないではないか。われわれが感動の涙を流した代償に、この映画は死んだのだ、という事実等に。 みんな薄々解っているのだろうが、誰もそれを口には出さないであろう。それで良いのだ。映画が死んだという事等いまや当たり前ではないか。それをみんな知りつつ、それでも「映画を観たい!」という自分の身勝手な欲求に従って騙し騙し創り続けて来たものを、こうあからさまに「映画は死んだ!いや、もうとっくに死んでいる」と宣言されてはもう、セルマのあからさまなドラマに逃避して、その説話論的具体性に身を浸している方がずっと楽ではないか。
でも、やはりセルマは、まるで嫌がらせの如く映画を語り続ける。愛する息子が遺伝で盲目になるのを解っていて何故生んだ?とのジェフの質問に、 「赤ちゃんを、抱きたかったの・・・」 泣きながらこう呟くセルマに、スクリーンを挟んで正対するわれわれは、一体何を思えば良いのだろう?
手ブレの酷い(流石にやり過ぎの感)カメラが不意に止まる時、セルマの身体にリズムが生まれる。「歌」が生まれる。それは果たして、古き良き(ミュージカル)映画へのオマージュなのだろうか?ただのノスタルジィなのだろうか?勿論それがセルマの現実逃避である事は日を見るより明らかだ。しかし大胆なカッティングで描かれたこのシーンが、実はDVフォーマットを通して、「フィルム」ではなく「ビデオ」を通してわれわれの眼に晒されたのだという厳然たる事実を前に、その「歌」の変わり果てた虚構性に無邪気に身を預けるセルマを、一体どの様に見守ってあげれば良いというのか? いや、というより寧ろ、もう御解りだろう、われわれが、果たしてセルマを「見守って」あげられる立場なのだろうか?
如何にも「同情して下さい」と振舞うセルマの瞳が、実はわれわれを「同情してあげる」為に向けられているのだという事に気付かされるのは、そう難しい話ではない。盛んに挿入されるあのミュージカルシーンが雄弁にそれを暗示している。法廷内での痛ましい尋問の際も、セルマの脳裏に、またしてもあの豊かな音の泉が押し寄せる。セルマの証言が総て嘘なのは解り切った話ではないか。それをわざわざ衆目の下へ曝け出させるという偽善。人間の精神的補完の為になくてはならなかった「嘘」を、無残にもこれ見よがしに「嘘」だ「嘘」だと糾弾し続ける醜い偽善!しかしセルマは涙すら見せない。怒りも、絶望もないその空っぽの眼差しで、自分の顔を総ての「傍観者」に見せ付けるのである。 恰も、「泣いてはいけない」「泣く必要なんて何もない」と言わんばかりに。「だって、本当に可哀想なのは、アナタだもの」
物語の終結に向かって進むのは、やはりこれ以上は控えよう。ただあの終結があったからこそ、解ってか解らいでか、カンヌは認めたのだろう。ならば、あの最後のテロップでカンヌは救われたのか?そんなイノセンスしか残っていないカンヌを想像するのは些かゾッとするが、しかしこれだけは確認しておこう。様々な偽善の誘惑に苛まれながら、それでも、「死に続ける」映画に少しでも誠実たらんとするわれわれは、やはり、この作品に感動してはならないのだ。「傑作だ!」と褒めそやしてはならないのだ。
勿論、明日も映画を観続ける為に、である。
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