[コメント] ファイナルファンタジー(2001/日=米)
そもそもスクウェアと坂口博信は、自分たちが今まで「何」でお金 を稼いできたのか、そのことをまるっきり分かっていない。いや、 彼らだって自分が「ゲーム」という領域でお金を稼いできたことは 充分すぎるほど知っている、と言うだろう。だが、その「ゲーム」 の本質にまったく無自覚だからこそ、彼らは「映画」に手を出して しまったのだ。
端的に言って「映画」と「ゲーム」は、それぞれの情報への接し方 において、正反対の性質を持ったメディアだ。その性質を簡単に表 すと下のようになる。
・「映画」は情報が線形に流れるリニア・アクセスなメディア
・「ゲーム」は情報が非線形に流れるランダム・アクセスなメディア(*)
情報への接し方がリニア・アクセスであるか、ランダム・アクセス であるかは、そこに向かい合う人間にまったく違うリテラシーを要 求する。情報が線形(つまり1本の線にそって)に流れるリニアなメ ディアでは、その情報の流れ方は情報の送り手・送信者が最終的に 決定する。つまり送信者が主体となるメディアだ。一方、情報が非 線形(つまり非連続かつ断片的)に流れるランダム・アクセスなメ ディアでは、その情報の流れは受け手側・受信者が最終的に決定す る。つまり受信者が主体になるメディアだ。
送信者主体になる「映画」と、受信者主体になる「ゲーム」。最も 根本のリテラシーの部分で反対の性質を見せる2つのメディア。そ れを考えれば、いかにスクウェアと坂口博信が勘違いしているかが 分かる。
「ゲーム」を買う消費者は一体何に商品価値を見いだし、お金を払っ ているのか? それはまさに「ゲーム」の持つ本質=受信者主体性の リテラシーに商品価値を見いだし、そしてお金を払っているのだ。そ うであれば「ゲーム」という商品の送信者である彼らは、受信者主体 という商品価値をいかに高めるか? ということに力を入れなけらば ならない。なのに彼らは、その逆をしてしまった。
シリーズを重ねるごとに「映画のような感動」を標榜し、長いムービ ーシーンを入れ込むようになった「ゲーム」のFFシリーズ。そのたび にコアなゲームファンから聞こえてきたのは、自分がゲームを「プレ イしている」というより「やらされている」感が強いという不満だ。 そしてついには「お使いゲー」とまで言われるようになってしまう。 当たり前だ。「映画」を指向することで「プレイする」受信者の主体 性をそぎ落とし、「やらせる」送信者の主体性を前面に出すようにな っていたのだから。
それでも(それ故に?)空前のゲーム市場の拡大にも助けられて売り 上げを伸ばしたスクウェアと坂口博信は、その勘違いをさらに肥大化。 ついに「映画」という禁断の木の実に手を出してしまった。
まさに「映画」は、彼らが待ち望んだ送信者主体を前面に出せるメデ ィアだ。しかし彼らの送信者としての主体性は、それを求められない 「ゲーム」という領域でつちかわれたもの。そもそも、たいした強度 を持ち合わせるものではなかった。だが「映画」というメディアはそ の特有のリテラシーで、送信者の主体性を厳しく問いただしてしまう。 そしてその厳しい「映画」の審問によってあぶり出されたのは……ま さにトホホとしか言いようのない、彼らの貧弱な主体性だった。
そりゃ金払って「映画」見た人は怒るよ。消費者はFFという「ゲーム」 の受信者主体性に金を払っていたのであって、送信者であるスクウェ ア/坂口博信の主体性には、ほとんど商品価値を見いだしていなかった のだから。一度だって値の付いたことのない送信者としての主体性に、 大きな価値があると思いこんでしまった彼らの勘違い。そしてその結果 は……みなさんすでにご承知のとおりですよね。
(*) 映画で使われる記録媒体=フィルムは、画像という情報を一本の線の上 に記録する媒体だ。そしてその情報の配列・再生順は、送信者によって 決定されている。映画館にいる観客は、その情報が再生される順番・速 さなどを操作できず、流れてくる情報を受信するのみだ。他方、ゲーム で使われる記録媒体=メモリーやディスクなどのROM媒体は、情報がデ ィスクの面やメモリーの素子に非連続・断片的に記録されている。そして、 その情報が再生される順番や速さは、ゲームのコントローラーを握った受 信者が最終的に決定している。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (1 人) | [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。