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[コメント] 春にして君を想う(1991/独=アイスランド=ノルウェー)

痛烈な片想い。
ひるあんどん

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







年月を経るにつれて人は年老いていく。それは身体的なこともそうだし、意識としてもやはり同じなのだろう。だから若い頃の身体を懐かしむように若い頃の風景を人は懐かしむ。そして若い自分が眩しく思うのと同じように、あの頃の場所が輝いて見える。それ故に人は自分の育った場所へ懐かしむように帰りたいと思う。

この映画のテーマもそのような故郷への回帰がテーマのように見られるかもしれない。そしてこれまで題材として扱われてこなかった「高齢者のロードムービー」として取り上げられたのだろう。しかし、本当にそうだろうか?

僕にはあの二人の逃避行が「懐かしい場所への帰還」というよりは「あの世へ行く旅」のように感じられた。確かに二人手を取り合って老人ホームを出たときは「故郷に帰る」というモチベーションが存在したのかもしれないが、車が消えた時から物語が幻想的に流れていった。

これは僕の解釈なのだが、車が消えた時から彼らはもうこの世の人ではなくなったのではないだろうかと。そしてこの幻想的な終盤は実は死の後の物語なのではないか、と思うのだ。(となると島を遮る海は三途の川であり、あの船はその渡し舟という解釈も出来る。だから乗り捨てられた車が報道されるシーンは蛇足だと思うが。)

死はその先のない現象である。だからこそ、人は死を恐れる。しかし、あの二人はもはや年老いすぎて後は死しか残らなかった。そして彼らは死の場所として自分たちの故郷である「忘れられた場所」へ行く。それが僕の最初の認識だった。つまり彼らの主眼は「死に場所」にあると。

しかし、映画の終盤の幻想的な展開を観ていくにつれてこれは違うのではないかと思い始めた。それは先に死んでいったステラのためにゲイリが丹精をこめてその棺を作るシーンがきっかけだった。彼らの主眼は決して「死に場所」ではなく二人でその場所へ行く行為そのものだったのではないか。

だから僕はこの映画の本当のテーマは「純愛」だと思っている。それも「叶うことない片想い」だと。

キスやセックスだけで愛は語れない。しかしただずっと側にいることだけでも愛は語れる。そして一つの愛の形として一緒に死ぬということはある意味でその究極のものではないかとも思うのである。一緒に死を目の前にし、それを怖れ、やがて迎え入れる。その間に二人には濃密な時間が与えられる。そして死を迎えた後も一緒に過ごせる事を願う。

だからクライマックスの魂が抜けたように呆然とうろうろと歩くゲイリの姿が強く印象に残った。彼は最後の最後で別れを受容できなかったのかもしれない。それを認めることは彼の想いが消えることとなるから。

ところである生命保険会社のアンケートによると「あの世でも伴侶と暮らしたいか?」という質問に対して男性側はYESが大多数だったのに対し、女性はNOが過半数を占めたのだという。生前の延長線上と考える男と死を一区切りと見なす女。そういう意味でもこの物語のラストはある意味味わい深いと思う。

(評価:★4)

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