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[コメント] A.I.(2001/米)

完成された失敗作
ひるあんどん

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







最初のうちは採点しないでアップしましたが、自分の中でとりあえず整理が出来たので採点し直します。ものすごい長文の上にネタバレです。

見る前に考えていたことは観客は「スピルバーグに何を期待しているのか?」ということだと思う。キューブリックのプランを受け継ぎ完成させたこの映画に、キューブリックを期待するのか。あるいは現在最大の巨匠となってしまったこの監督の描く未来を、観に来たのか。

「スピルバーグが好きな男にはろくなのがいない」。これは雑誌のインタビュー(ロッキンオン・ジャパンの2万字インタビューだった記憶がある)で椎名林檎がふと洩らした言葉である。スピルバーグは良くも悪くも最もアメリカらしい監督であり、アメリカを盲目的に信仰するには、もってこいの対象である。となると、彼女のこの実体験が基づいた比喩はスピルバーグ自身のような「夢見がちでいつまで経っても「少年」のような男」の本質的なダメさを突いている。そしてそれに加えてそれを容認するアメリカにも違和感を感じているからとも考えられる。(そう言えばデヴュー前に渡英したように、彼女はアメリカよりもイギリス派だと思う。「尊敬する表現者」として「偏屈野郎」ピーター・グリーナウェイを挙げていたのもあるし)

そう言えば、僕もスピルバーグの映画を好んでいく方ではなかった。親父がハリウッドの大作が好きで、幼い頃に連れて行かれる映画も決まってそういうような作品ばかりだったが、ジョージ・ルーカス関連はやたらと行ったのにもかかわらず。スピルバーグは『インディー・ジョーンズ魔宮の冒険』『ジュラシック・パーク』ぐらいしかない。どうせテレビ放映されるという打算もあったのかもしれないが、僕が『激突』とか『ジョーズ』みたいに怖い映画を苦手としていたのも原因だったのかも知れない。あるいはジョージ・ルーカス系統の方が何も考えなくて済むと思っていたふしもある。確かに。

ただ、時たまテレビ映画で放映されるのを見るとやはり才能には舌を巻かざるえない。『激突』や『シンドラーのリスト』なんてこの時期に初めて見たし。しかもテレビで。(そう言えば『E.T』も『JAWS』もまだ観ていない)下手な監督に比べると、スピルバーグの作品はまさに映画でありテレビ映画でも「あー、映画を観たなあ」という気持ちにさせてくれる。そういう意味では彼は天才であり、職人だと思う。その職人性ゆえに評価が定まらないのでもあるが。

さて、『A.I.』である。キューブリックの遺作を引き継ぎ完成させたのだが、観客は何を期待していたのだろう。ご存知のようにキューブリックは死んだ。そして彼の映画をもう観ることは出来ない。そしてその企画を受け継いだのはスピルバーグだった。キューブリックという監督の特質は天才性と革新性であり、スピルバーグの特色は職人性と安心感である。ゆえに全くのアンビバレンツであり、それだからこそプライベートが上手く行ったともいえる。ならばその両方の才能の結果として『A.I.』を観るならば、どのような作品になるか。

ロボットが人間と大して変わらなくなり、その存在意義が問題となるというのを僕は欧米的発想という風に捉えている。日本の場合「ロボットを操縦するのはあくまで人間」という発想があり、思考回路についてはそこまで踏み込まない傾向が強いからだ。つまり欧米の場合、「新しい人間」という発想をするのに比べて、日本SF(アニメ・コミックに限ってという縛りもあるけど)は「未来のツール」という発想をする。この場合ドラマの主体となるのはその状況をめぐる人間模様や社会そのものとなる。

具体例を挙げれば前者は『われはロボット』などのアイザック・アシモフの諸作品や『メトロポリス』(フリッツ・ラングの方)、『2001年宇宙の旅』(これはコンピューターだが)『ブレードランナー』など。日本の作品では手塚SFのほとんどは前者である。一方後者は『鉄人28号』から始まって『ガンダム』、『イデオン』、『パトレイバー』などのロボットアニメに通じる。しかしそうやって単純比較することも最近は難しい。『攻殻機動隊』は前者、『ドラえもん』は前者と後者の2重構造(ドラえもんの存在自体は前者なのだがひみつ道具は後者的発想)『エヴァンゲリオン』は重点は人間ドラマなのだが、ロボットそのものは前者・後者両方の側面を持っている。(出来不出来はこの際言及しない)

気がついてみるとどうもキューブリックやスピルバーグはどちらかというと前者的発想で映画を作っている気がする。この映画の基本設定として(これはネタバレとならないのでそのまま書き込みたい。)後者の発想で人型ロボットが開発されていたが社会や技術の向上により前者的な発想に基づくロボット作りへ移行される。その先駆として開発されたのがデイビットであり、人間特有の『』の感情を初めて持つという特徴づけがなされた、とある。つまり人間としての意識を科学技術によって「開発」された場合、その「開発」された意識はどうなっていくのかというのがこのストーリーの主眼であった。そして僕が感じる違和感は「ロボットが人間の同義として、存在しえるのか」という点である。

ホストファミリーとなるモニカとヘンリーが望んだのは「ツールとしてのデイビット」であった。彼らは病気の息子マーティンの代用品として、あるいはマーティンの親友として彼を頼んだのであって、そのために彼は「ツール」として存在しなければならない。しかし、彼自身は「人間」として存在を求めた。そして開発の側もそういう風なテーマがあった。そこで彼を巡る社会にジレンマが生じる。これが前半である。

しかし、もしそのジレンマがこの映画のテーマだとしたらわざわざスピルバーグもキューブリックも手を出さない。そしてこの時点でこの物語が微妙な歪みを与えざるえなかったと考えている。後半のキーワードは『ピノキオ』。

「意識は人間であって身体は機械」から「人間になりたい」という発想へと繋がる。デイビット少年はそのために動き出すこととなるのだが、どうもこの発想の転換が不自然に感じる。さらに彼の発想の根源は「母(モニカ)に愛されたい」なのだが、これもどうか。

人間と機械。その二項対立という図式が前半に比べると希薄となっていく。特に機械側の思考が淡白なのは「まだ深い思考まで科学技術が至っていない」という設定上の言い訳が効いている。そうなった途端にリアリティーが離れていき、物語の「おとぎ話」化はどんどん加速化していく。クライマックス直前に至っては何をいわんや、である。こうなるとクライマックスは妥当な判断だと思える。こうじゃない限り決着はつかない。

単純な比較論となるがピノキオはデイビットよりも恵まれている存在である。何せ彼は「人形」ではあるが「機械」ではない。妖精もいたし彼を導くバッタもいた。存在について深く考えることはなかった。しかし、デイビットはどうだろうか。彼は機械であった上に、到達すべき場所を自分で考えなければならなかった。助言を言う存在(テディとジョー)はいたが彼らはデイビットを制御できなかった。そして、制御の規範となるものも持ちえなかった。ちなみにジョーの場合は違うアプローチが出来たという意見もあるが、僕は賛同できない。何よりも彼らの上にデイビットが存在するのであり、彼はこの世界において特別なのである。それを彼自身もわかっているし、ことあるごとに主張する。それがこの物語の歪みをさらに深めていると思うのである。

結局、この映画は完成された「失敗作」と思えるのであり、スピルバーグにしろキューブリックにしろこれを満足行く形で完成できなかったと思えるのである。

ちなみに、演出という点に関しては見事といってもいいだろう。希代の伊達男ジュード・ロウはもう完成したなあという印象。ハーレイ・ジョエル・オスメントはやはり巧い。ウィリアム・ハートブレンダン・グリーンの脇役もしっかりしていた。しかし、母親役のフランシス・オコナーは、うーん……。オスメントに食われた気もしなくはないけど……。

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ちょっと気になったことがあったので書き加えたい。前回書いていて気がつかなかったのだが、よくよく考えるとタイトルにある通り「A.I.=人工知能」の物語であって人型ロボットの話ではない。ないんだけど、どうも混同している部分がある。僕の場合はここに『パトレイバー』や『ガンダム』を持ち出してたのだが、これだと全然お門違いな批評になってしまう。どうもスピルバーグキューブリックも原作者のブライアン・オールディスもどうやらその傾向があるみたいで。(原作は読んでいないけど)タイトルが「人工知能」なのに冒頭から「メカ(機械人間)」の話。もしかしたらこの映画、ここから間違っているんじゃないのか、という気もしなくはない。

という訳で人工知能学会のホームページを見てみると、

「「人工知能」とは何だと思うでしょうか?まるで人間のようにふるまう機械を想像するのではないでしょうか?これは正しいとも,間違っているともいえます.なぜなら,人工知能の研究には二つの立場があるからです.一つは,人間の知能そのものをもつ機械を作ろうとする立場,もう一つは,人間が知能を使ってすることを機械にさせようとする立場です.そして,実際の研究のほとんどは後者の立場にたっています.ですので,人工知能の研究といっても,人間のような機械を作っているわけではありません.」(引用)

とまあ、こんな感じ。あくまで「現在の段階」としてという留保はあるんだけど。

文字通りに捉えようとすると「人工知能」とはそれこそ「機械の(人間の)脳みそ」となるのだが、現在の科学的な考え方は「知能的プログラム」の事を指す。それこそ「ドラクエIV」の「勝手に戦闘を進めるシステム」とかチェスの名人を破ったコンピュータ・プログラムみたいなもの。それを作るにはあらゆる複雑な状況に置いても対応できる方程式(プログラム)が必要になっていく。つまり、現状のアプローチは今だ数学であって、あの映画のような機械工学でどうにかするというところまで行ってない。

さて、将来的に人工知能が映画のような展開へと突き進むのかと言えば、どうもそうじゃない気がする。感情の発露ですら文化や個人差によって一元化されているとは言いがたいのに、それをどうやってプログラミングするか。あと科学(特に自然科学)は客観化が第一として考えられるが、これもゲーテルやウィトゲンシュタインらによって否定された。今後の展開としては「主体的観点とは何か」が問われてくるのだが、これが解明されてくるとパラダイムそのものが引っくり返される可能性が高い。

今のような社会(というか価値判断)がそのまんま続いているという前提がこの物語を引っ張っていると思うのだが、その前提は冒頭の未来像で否定されているはずだし。はて?

この話、クローンや脳移植の方がつじつまが合う気がするのだが。

(評価:★3)

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