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[コメント] シーズ・ソー・ラブリー(1997/米=仏)

ジョン・カサベテスで観たかった……ただ、それだけ。
らむたら

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







人を批判するときは「まず注意すべき点をきっちり指摘したあとで誉める」のが定石らしい。映画においても同様だろうか? この映画は最初結構期待していた。なにせショーン・ペンは優れた映画人(俳優としてだけでなく監督としても)だし、ロビン・ライト・ペンは好きなタイプの女優さんだし、脇を固めるのがジョン・トラボルタジーナ・ローランズハリー・ディーン・スタントン。更にその上に脚本はジョン・カサベテスが遺したものであり、監督はその息子のニック・カサベテス。期待しちゃうんじゃないでしょうか?

批判したいところに較べると誉めたいところがあまりにも少ないので、褒貶のバランスが取れないのは予め分かってるから最初に気に入ったところを挙げておく。なんといってもハリー・ディーン・スタントン。この俳優はちょろっと出てきて、一番美味しいところを持っていくというか、歴然たる脇役なのに一番印象に残ってしまう味のある俳優だ。もちろん『パリ・テキサス』のような主演もあるが、主演だとかえって持ち味を損ねてしまっているのではないかと“思い込みたくなるほど”脇役の適性が抜群に高い。『グリーン・マイル』での際立った存在感はあの宗教的だけどどうしたって退屈な映画で一番の“救い”だったのではないだろうか? 『ストレート・ストーリー』で最後の最後にちょろっと顔を出して一番美味しいところをもっていくあの存在感はなんなんだろう? この映画でも名だたる名優たちを向こうに回して、仁義に厚い常識的なイタリア人を演じて否応のない存在感を発散しいる。

さて、あとはこの映画が好きな人には不快かもしれないのを断っときます。箇条書きで、思いつくままに。

ニック・カサベテスの方針。  この映画はコメディではないけど、コメディタッチなのは観ていて分かる。音楽、セリフ、間合い、俳優(得にショーン)の表情、なによりもストーリー展開などから。しかしコメディタッチで撮ろうとしていて成功しているとは思えない。ニックの親父のジョンの脚本だけど、ジョンの映画でコメディっぽいのってあったかな? シリアスな映画が多くって思い出せんが。だとしたらジョンの監督でコメディタッチの映画を観たかった。精神病者が主人公だし、浮世離れした相思相愛の中に埋没してしまうカップルの映画だから、コメディっぽくなるのは当然としてもどうもそのタッチにムラがあってコミカルなリズムが一貫してないように思えた。例えば前半部。前半部でショーンが精神病院に収容されるまでは比較的 コメディタッチが軽く所々シリアスですらある。出だしなんかはもともとどんなにけばいメイクと安っぽい役柄ででごまかそうと知性を感じさせるロビン・ライト・ペンが中心だし、婦女への暴行という重い出来事(これは以後の必要不可欠な展開のための引き金なのだが)を扱ってるためシリアスであることが避けられない。例えば子供の扱い。ラストでショーンとトラボルタが対決する場面で重要な役割を果たすのがショーンの実の娘であり、トラボルタの義理の娘であるジーン。彼女がいろいろとコミカルなアクセントをつけるのだが、微笑を誘うというより、全く面白くないのでちょっとひいてしまう。アルコールを飲んで義父に理解のあるところを暗示する場面など意図がみえみえすぎる。

ショーン・ペンのコメディへの適性?  青春スターから実力派俳優へと着実に成長しつづけているショーンの能力にけちをつける資格はないし、そのつもりもない。ただ喜劇には似合わないのではないか? この映画でも精一杯「彼女への愛に生きる精神をちょっと病んだ純粋な男」、いわゆるトリックスターを演じていたが、そのコミカルな味を出そうする表情が少々苦しげで観ているこちらが戸惑ってしまう。かつて『月を追いかけて』で共演したニコラス・ケイジだとピッタリだなと思いつつ観てしまった。「俗世間とは無関係にひたすら愛に生きるカップル」ってのは『ワイルド・アット・ハート』と同様だし、ショーンもどこかでニコラスのことを意識していたのではないか?

●現実の夫婦が映画で夫婦を演じること。  これは別に違反でもないし、構わないと思う。夫婦じゃなくっても現実で恋人関係のものが映画で愛し合ったってなんの問題もない。現実に愛し合ってること自体が映画の中の演技となる。それはもはや演技じゃないとの批判もあるかもしれないが、アドリブがもてはやされたり、素人の起用が成功したりするのも、「鍛え上げられた演技」ではないできるだけ自然の所作に近いリアリティを映画の中に取り込もうとする監督の意図は高評価を得やすい、特にインテリからの。素人を好むアッパス・キアロスタミや無名俳優を起用するケン・ローチの映画のドキュメンタリーっぽいリアリズムが非常に高い評価を受けるわけだから、俳優が演技ではない“地”を見てたところで別に問題ないと思う。しかし! 実生活で愛するもの同士が現実に愛し合うのを映画の中に取り込むのは構わないとして、単にイチャイチャしている(と観ているものに思わせてしまうほどイチャイチャしている)だけなのはどうかと思う。ちょうど知り合いカップルの家に招かれて彼らのアツアツのホームビデオやアルバムを否応なく観せつけられているような気まずさと気恥ずかしさときまりの悪さ。この映画ではタクシーの中で乳繰り合うシーンと終り近くで自殺をこころみた彼女をショーンが救ってそのあとイチャイチャするシーンがなんとも居心地の悪さを感じた。こんなことは二人が仲のよい夫婦であることを知らなければまったく気にならないことなのかもしれないが。知っているだけにどうしたって気になってしまう。まあ、余計なお世話なのだが……

(評価:★3)

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