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[コメント] 新SOS大東京探検隊(2006/日)

奇妙なノスタルジア。(2009.3.21)
HW

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 率直に言って、私にはこの映画はなにか酷く病理的なものに見えた。いや、私たちを取り巻いている状況の病理性がこの画面上に象徴的に表れているように思えた。その意味では興味深い一本ともいえる。さして話題性もなく、実際満足な出来と言い難い中編アニメ、一作のよしあしの問題であればいくらでも見過ごしてよいのだが、しかし、この映画の薄気味の悪さには、現代の、とりわけ日本のサブカルチャーの抱える問題として受け取るべきものが潜んでいるように思える。

 問題は、この映画が幾重にも孕んでいるノスタルジア的性格にある。

 まず、作品に即して言えば、原作のそもそもの性格と時代を経てのその映像化という問題がある。1980年に少年誌に発表された大友克洋の原作短編(「原案」程度と見るべきだが)は、大友の自覚的な「少年物」だ。彼なりのアレンジを加えた「よくある」感じの「冒険譚」であり、小気味よい既視感が意図されたものであった。だが、それが今回30年近くを経て「新」として子の世代のキャラクターのもとに映像化された。「懐かしさ」への志向が、世代交代の形を取りながら無時間的に何の屈託もなく再生産されたのだ。このあきれるほどの屈託のなさは正真正銘だ。発表された原作短編には盛り込まれなかった当時のアイディアがこの「新」には組み込まれているという。地下に暮らす旧帝国軍人や全共闘、三億円事件犯(?)などがそうかもしれない。だがそうだとすれば、次いで、より大きな問題を考えざるを得なくなる。

 学生運動にしろ三億円事件にしろ、大友にとっては本来同時代的な題材であっただろう。あるいは、横井庄一、小野田寛郎らの残留日本兵帰還をめぐるメディアのセンセーショナリズムも70年代の出来事だ(大友は1982年の矢作俊彦との快著『気分はもう戦争』でおそろしく冷笑的に残留兵を登場させている。その残留兵が一人拝む「仲間たち」の位牌には「横井」「小野田」の名が・・・という悪辣ぶりだ)。ところが、この映画においては、帝国軍人にしろ全共闘にしろ、同時代性をすっかり拭い去られ、毒も批評性もない平板なギャグへと貶められている。銃も日本刀も火炎瓶もゲバ棒も戦車も、本来不可分であったはずの歴史と暴力から遊離していて、画面の上で十分な質感をついに持つことがない。実際、この映画に限らず、あらゆるノスタルジア映画(私としては、『スター・ウォーズ』や『ロード・オブ・ザ・リング』、『ハリー・ポッター』のようなファンタジー・サーガも、日本の膨大なSF・ファンタジー系シリーズアニメ群の大半も、個々の出来不出来は別にして、迷わずこれに入れるべきだと思う)が扱うことができないものこそ「歴史」でありそこに必ず孕まれる「暴力」であるのだけれど。歴史と暴力とは、「現代」を描く条件でこそあって、ノスタルジアにとってはせいぜい邪魔者なのだ(逆に言えば、「現代」を扱っているかどうかは、作品の時代設定と必ずしも関係がない)。時代的変遷を無視したまま80年代当時の大友の「現代」的な意匠が屈託なく再生産され、なまじ奇妙に現実と接点を持ってしまったことで、この映画のノスタルジアははっきりと「現代」からの逃避を示唆してしまっている。

 それは、こういうことでもある。つまり、大友の漫画が80年代当時秘めていたあの同時代性に裏付けられたシニカルさを本気で再現(再生産ではなく)しようと求めるならば、この30年間の落差を無視したのは間違いなのだ。もし今日の見地から再現したならば、某新興宗教団体が弾圧を逃れて地下サティアン(あっ、言っちゃった)を建造しているというのは十分ありえたし、某国に連れ去られたはずの拉致被害者がなんのことはなく地下でのうのうと暮らしているというのだってありえたかもしれない。この映画における帝国軍人や全共闘に対する描写の貧しさは、同時にそのまま90年代、00年代を語る視座と能力との欠落なのだ。腹立たしいことに、我々の「現代」がせいぜい画面上に痕跡を留め得るのは、落ち着きなくチラつくデジタル機器の存在くらいということらしい。

 あるいは、原作では、少年たちの迷い込む地下道は「あの一族」の居住地(旧江戸城ともいう)へもきちんと繋がっていて、先代の「あの人」が登場するコマがある。そして痛快なことに、「田舎のおばーちゃんがあの人のファンなんだよね」なんてセリフが少年の口からこぼれる(これは重要なことだ。大友が描くのは「あの人」が中心に存在する現実の東京だったのだけれど、この「新」の描くのは最後まで架空の東京のままなのだ)。そう思い返してみると、戦車を地上へ出すのならば、テレビカメラの前になどではなく、いっそ皇居(あっ、言っちゃった)のど真ん中にでも繰り出させればよかったのだ。そして、帝国軍人と(奥崎謙三に言わせれば「厚顔無恥」であり続けた)「あの人」のあの善良な息子とを対面させてしまえばよかったのである。「あの人」亡き今、帰還兵はもはや宙に浮いてしまう「天皇陛下万歳」(あっ(以下略))のほかにいかなる言葉を持ちえるのか?

 だが、この映画が告げているのは、そんな諸々の場面を描くことは少なくとも今日の日本では到底許される見込みがないといううんざりする相変わらずの常識(良識?)と、紙媒体に対する映像媒体の表現性・言論性の相変わらずの貧しさなのであって、なにより我々自身の抱える、現代を語るための言葉の貧困だ。帝国軍人も全共闘も一緒くたに冴えないギャグとして提出してしまう側にも責任はあるが、そういう話題を検毒済みのギャグとしてしか受け付けない社会にはもっと責任がある。

 逆説的ではあるが、この映画における同時代性の不在は極めて同時代的だ。この映画で唯一明確に同時代性を刻んでいるのは、フィギュアに没頭する父親(この描写には好感を持てた。というのも、悪意があるからだ)と、画面に登場せず、「出て行った」という情報以上の特別な感慨をなんら誘わない母親という、存在感の薄い―そして存在感の薄いことがもはや問題にすらならない―両親であろうが(母と離れて暮らす兄弟の冒険という意味では、なんだか『となりのトトロ』へのタチの悪いパロディのようにも思えてくる)、つまり、この映画は、「親子」のようなお決まりのテーマすらも予め死を宣告され、あらゆる物語からいよいよ見離された、出来事性のない事物の羅列をしか生きられない、「現代」的な子どもたちの、空々しく悲痛な冒険譚なのだ。この冒険に圧倒的に欠落しているのは、時間と場所の隔たりの感覚である。東京の地下という見慣れた「近く」が見知らぬ「遠く」に変貌する、そういうあって然るべき感覚がまるでない。彼らには、「ここじゃないどこか」を渇望させ得る日常も、帰るべき「お家」も与えられておらず、地下東京の冒険は、チャットルームの延長線上のオフ会という以上の出来事性を持たないのだ。新幹線の「時間」が来たからと地上へ去る、少女のあっけない退室は、(そこに大友的なクールネスが意図されていたとしても)嫌でもそのことを痛感させる。

 ただ、繰り返し腹立たしく思えるのは、その空々しさが必ずしもこの映画単独の責任ともいえない、ということだ。実際、ハリウッド映画であれ、日本のサブカルチャー作品であれ、こういう毒にも薬にもならないノスタルジアは、同じ毎日の繰り返し(だからといって、本当は「歴史」も「暴力」も決して都合よく過ぎ去ってくれてなどいないのだが)のなかで語るべき「現代」を見失った「現代人」のお得意の逃避先になっているのだから。たまたまメッキの剥がれていた一本を非難するかどうかはむしろどうでもいいことだ。

(評価:★1)

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