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[コメント] アサシンズ(1997/独=仏)

老人と青年。そして、不穏な3人目の登場。『憎しみ』を超えた、超えざるを得なかったマチュー・カソヴィッツの境地。鋭く、苦悩に満ちている。
HW

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







まるで日本の少年漫画や香港カンフー映画(劇中に日本アニメの映像やジャッキー映画の話が出るが)を連想させる伝承話として幕を開けるのだけれど、そこから期待されるような殺しの技術というものはロクに描かれず、死体処理も無ければ、指紋など証拠隠滅すら無い。これには初めイライラさせられる、「これで何故捕まらないのか?」と。しかし、恐らく監督は映画で誇張され続けて来た暗殺流儀などを描くつもりもなければ、むしろそれに反論しようとさえしているのだと後々分かって来る。

そして、カソヴィッツ演じる青年は見る側の期待を裏切り、「成長」など見せぬまま無様に退場する。まさかの主役交代劇。前2作で人種問題の単純な二項図式(「白人対黒人」etc)を崩した「三人の主人公」への監督の拘りはまたしても「大人対若者」「大人対子供」といったお決まり図式を崩す切り口を開く。入れ替わりに主役となるのが不穏な空気を漂わせる少年。こちらの嫌悪感を誘う無感動で冷酷なこの少年は、だが、決して老人が求めるような「殺し屋」の素質を持つ者ではない。青年も少年も老人の語る古臭い職業倫理に理解を示さないが(青年は殺しより金に興味が向いている)、より無感覚であるという点でのみ「殺人者」の素質に差が出る。その無感覚の根底にはメディアの存在が明示される。安直で大袈裟な批判と思われるだろう。タイトル通り、人々の間に生まれる憎しみを描いた前作に比べて、これは浅い映画だとも言われるかもしれない。しかし、漠然とした無差別な殺しへと至るこの映画が『憎しみ』の事態を超えているのであり、まして現実の暴力などはそれ以上であろう。暴力への監督の眼差しが前作から本作の間に辿った経緯は察し難いものではないし、次なる世代(=少年)の登場がこの物語に不可欠であった事も理解出来る。また、メディア批判と言っても、決してTVやTVゲームが悪魔的魅力を持つ存在などではなく、裏に家庭や学校での断絶した関係が描かれている事も注目されるべきだし、無闇に現代の倫理崩壊を嘆いて、一定の倫理観で殺人を行える老人の世代(まさに世界大戦の世代か?)を賛美している訳でもない事は念頭に置きたい。

とここまで書いた所で言うと、この映画はかなり損な作りになっていると思う。そもそもメディアと暴力の問題に暴力映画で挑む事自体、必然的に様々な側からの批判を覚悟せざるを得ないと思うが、この映画も実に批判され易い作りになっている。だが、決して反発される事を自ら望んで作られているような捻くれ風刺映画などでなく、テーマへの信念故の犠牲を自ら背負っているのであり、それでも敢えて挑んだ監督の真剣な視線と覚悟がハッキリ覗える。本物の力作だ。ラスト、老人の背後でTVを見つめる幽霊のような人影には『ラルジャン』を彷彿、鳥肌が立った。

ところで、これを見ていると、『クリムゾン・リバー』でのTVゲームとタブらせたおふざけ格闘なんかにも何か深い意味が・・・と思い返してしまうが、それはきっと過大評価で大きな誤解だろう。(失礼

メジャーやめろとは言わないが、埋もれさせてしまうのは惜しい、戻って来て欲しい監督。

最後に余談ですけれど、劇中のTV映像の中に『刑事コロンボ』が出てきて、スティーブン・スピルバーグの監督クレジットがサブミナル的に一瞬映されますが、果たして、あれの意図は・・・?少なくとも手放しの敬意表明などではなさそうです。やはり挑戦的な映画だと思います。

(評価:★5)

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