[コメント] 花のれん(1959/日)
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総体散漫な印象が残る。終盤に唐突に参入してラストを持って行く司葉子(息子石浜朗の恋人)などおかしな人物配置だし、突然噴出する番頭アチャコのアワシマへの秘めたる想いも唐突。石浜の子育てに人生使ってしまった乙羽信子の悲哀は比べれば起伏があるが「結局は肉親か」とひとりごちる乙羽の纏めは簡単に過ぎる。
これは豊田作品全般の傾向では決してないが、彼の失敗作の典型ではある。喜劇なら人物を笑って切り捨てたらいいのだが、観ている方は喜劇と思っていない、というすれ違いだろうか。あるいは長尺に撮り過ぎて編集で要所を切られる、という失敗パターンがあったのかも知れない。
冒頭、商売やる気のない森繁が悪戯して紐切って飛ばした屋台の風船が、次の件で再登場して室内に入り込み、次には乙羽の背負う赤ん坊が持っているというショットがとてもいい。森繁腹上死(相手は環三千世。腹上の描写は残念ながらない)で葬式、関西伝統の白無垢着るアワシマ。二度と男を作らないという風習で、彼女は母から着物を授けられたとある。サティ―もどきの封建伝統。
猪突猛進のアワシマが師匠スカウトの法善寺待ち伏せ作戦、飯田蝶子さんが舞台で安来節唄って大人気。大庭秀雄の『横堀川』はある意味巧みで、ここで主演の倍賞千恵子が客と一緒に安来節踊って大成功で気持ちよく終えていた。本作はこの先を描き、ここから地味になる。佐分利信とのロマンス(フラれて料亭から池におちょこ投げ込むショットは鮮やかだが)は地味。労使関係が失敗続きで飯田蝶子さんが怒って安来に帰ってしまい、後継ぎ候補の息子石浜の大学生らしい母への経営批判、「芸人を縛ったあくどい商売はやめてほしい」という展開は何もキリがつかないままに石浜の出征。
最後は焼野原で再生を誓うアワシマと石浜、司。焼け跡からの再生というラストは『東京夜話』でも使われた。豊田は好きだったのだろう。しかしアワシマの主人公がこの後、労使関係を見直すとか、アチャコと再婚するとか、乙羽の子育ての労をねぎらうとか、そういう前向きな話は何もなく終わるのはいかにも半端であった。
吉本が(映画では別名だが)儲けて通天閣を所有(1938〜43焼失)した話は知らなかった。戦前から吉本は大企業だったのだ。専属契約を破った桂春団治(演じるのはなんと渋谷天外でさすがの押し出し)の口がアチャコの番頭に差し押さえられたのは山崎豊子の創作で、実際は本人が自ら札を貼った由。東京映画モノワイド。
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